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2007.03.31

デジタルの申し子

SNS等でのいわゆる「読み逃げ禁止」問題、というのがあるそうで。

思ったのは、

日記を読む/読まない、ということが、
コメントする/コメントしない、ということに、
さらには、好かれている/嫌われている、ということに、
それぞれ1対1対応しているのかな、と。

「0」でなければ「1」。
「1」でなければ「0」。

デジタルの化身がごときコンピュータorケータイ(の画面)に向かうから。
それでなくても世の中の機械がみなデジタル化してきていますし、デジタルに囲まれていると人の考えもデジタルに……なんて情緒的な表現はあまりよろしくないのでしょうが(笑)、それでも『デジタルな考え方の人』が増えていくような気がします。なんとなく。

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2007.03.29

啓徳の思い出/GoogleMaps香港

話題のタイミングというものがあるのでしょうか、某ソーシャルブックマークで'98年に閉港した香港國際機場(啓徳)Hong Kong International Airport(Kai Tak) の Runway 13 IGS Approach:通称『香港カーブ』のYouTube映像が話題に上がっているのを見て。
「有名な風景」であり「懐かしい」という感想なんですがブックマークコメントを見ると初見の驚きを表明される方も居られるようで、そのことが新鮮に思えたり。
昔から個人のホームページに動画が置いてあったりしたわけでその意味でも驚くような話ではないのですが、そうですね、今はYouTubeで何でも見ることの出来る時代なんですね。

で、話題に上がっていた映像よりバンク角のきつい(撮影場所の違いだと思いますが)、そして我がハンドルの由来たる"Tristar"の映像を貼り付けてみるテスト。

YouTube - Kampuchea Airlines L-1011 landing at Hong Kong Kai Tak


かつて香港に行ったことがあります。この香港カーブを体験するために(笑)。

チェックインで"Window""Right side"と言ったにもかかわらず"A"(左の窓側)席を発券しやがった台北のカウンター職員と、おかしいと思いつつ言い出せなかった自分を今でも恨みます。日暮れの到着でしたが案の定カーブの外側で夜景らしい夜景も見えず。

翌日。
空港3階だか4階だかにあった駐機場に面した大きなカフェテリアで、雲呑麺Won Ton Noodle(超細麺であっさりしてたのを未だに憶えてる)をすすりつつそのまま数時間粘ったこと、
その後有名な駐車場ポイント(隣接のカーパーク屋上)で『香港カーブウォッチング』を堪能したこと、
そこにいた白人スポッターが本当に単眼鏡でウォッチングしていたこと、
(日本人はまず間違いなく双眼鏡を使いますが、外国ではほとんど単眼鏡、と読んだことはありましたが)
彼らが日系の会社の機材「だけ」しかカメラに収めなかったこと……

すべてが懐かしい思い出。
啓徳である間にもう一度行きたかった...
……もう新空港Chek Lap Kokに移転してから9年経つんですね。
そして今年は香港返還10周年。


話題のついでに。 去年の今頃は航空写真のみ、しかもまだ「新空港が造成中」の画像しかなかったはずの Google Maps ですが、いま見に行ったら結構詳細な地図まで表示できるようになっていました。もちろん画像も更新されて。 下記スクリーンショットはその旧啓徳機場付近の地図+写真ハイブリッド表示 地図を眺めているだけでちょっとした旅行気分になれます。 そういえば中環Centralから維多利亜港Victoria Harbourに向かってひときわ大きく輝いていた『ぢ』のネオンサイン、なくなってしまったんだそうで。残念。
ここに<山口 文憲『香港 旅の雑学ノート』(新潮社文庫:1985)>のアフィリエイトを貼り付けたら儲かったでしょうか。10円くらいは(笑)。 新潮社サイトには記載なし。オンライン書店にリンクするのは癪なのでリンクアンカーなし。

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2007.03.28

たとえば、[ちょっと休憩☆]という価値。

受け止め方によってはものすごく失礼な言い草かもしれないのですが。

不倒城: 許せないブロガーと、怒れないブロガー。

そんな中、「怒れないブロガー」としてひっそりのらくらと書き続けていくにはどうしたもんかなー、と、私はなんとなく考えている。

「普通の感情で」書き続けることが出来るのなら、それが価値になるのではないでしょうか?
仰るように、周囲(のブログ)が怒りのパワーにあふれているとするなら、なおさら。


「許せない」に限らず、何かしらネガティブな感情、というのは、『発想のトリガー』というよりは『"読んでもらうために書く"ことの原動力』であるような気がします。 ですから「けなす言説」が多数派になるのは自然のことだと思います。
……そして私などは「「「それを書いても伝わらない絶望感」を書いても伝わらない絶望感」を(以下無限の繰り返し)」。


たいていの人は、いちど「ネットに向かう」ごとに数件から数十件のサイトを「見て回る」ものだと思います。
その多くが「負の感情によって書かれた」文章だとすれば、その途中で出会った「普通の感情で書かれた」文章は、その読者にとっては「ひとときの安らぎ」になるかもしれません。
可能性の話でしかないかもしれませんけれども、もしその人に何がしかの安らぎを与えられたなら、それで充分に「価値」といえるのではないですか。

文章の内容までは、まぁ・・・次の画面に切り替わったらほとんど揮発しているかもしれませんが(笑)、でもそれは他所のサイトでもたぶん同じことで。(だって、自分だって、そうでしょう?)
(だから一つの"嵐のような反応"をあまり真に受けることもないような気がするのですがそれはともかく)


えーっと、つまり・・・
誰かの画面に映っている間だけでもその人に何かを思ってもらえたら、もうそれでええやん、と。
それ以上を望むから、いろいろとおかしなことに……

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2007.03.26

まだ煽りますか(苦笑)

一瞬爆笑。
日経PC21:2007年5月号:見開き全面広告。
雑誌写真
写真の人物像の周囲の煽り文句:

---ここから---
ぴったりのカレが見つかった。
メディアに紹介。有名人に。
アフィリエイトで高収入。
寂しくありません。
ヘッドハンティングされた?
ダイエット成功!
合コンでモテました。
毎日がとっても刺激的!
今っぽいと思われます。
---ここまで---

あ、あぁ……そうですか。


ちなみに右上の注意書き:
注意書き拡大写真
※個人差があります。

個人差があります。
……個人…差…がある……そうです。


一瞬爆笑。
5秒後には苦笑。
10秒後・・・放り投げました。

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2007.03.24

pricelessに賭ける、pricelessを賭ける。

304 Not Modified: あなたにとって 0.01秒 はどれだけの価値がありますか?

競艇のことはよく分かりませんが、全額返還になったのであれば「1.0倍」で勝ったのと同義といえるかもしれません。少なくとも負けてはいない。
そういえば競馬のGIで出走直後に一番人気が落馬したことありましたっけ。
ゴールしても審議の結果降着とか、いづれにせよ払戻対象ではないわけですが、それでも投票金額以上に負けることはない。

さて。

同所:

ブログを更新するとき、コメントと投稿するとき、買い物を確定するとき。ボタンを押す前にちょっと考えてみてはどうだろう。そのクリックによって、何を得ることができるのか、何を失う可能性があるのか。

買い物であればある程度の予測はつくけれども、
「なにかを書いたこと」で、
得られる(かもしれない)ものはpriceless、
失う(かもしれない)ものもpriceless、
そして結果はいつも、どちらも、想定外

#まぁ大抵は「思ったほどではなかった」という表現になるのですが(苦笑)

得られるものはそう簡単に予測がつけられるものでもなくて、
でも、だからこそ続ける原動力になるとも言える。

失うものも予測はあてにならないから、
投資で言う「損切り」じゃないけど「最悪どこまでなら失なっても大丈夫か」の限度を考えておかないといけないんじゃないか、と思う。
クリックする前に、
もしくはEnterキーを叩く前に、
……好ましくは、ブログを始める前に。

関連かも:
それは時間と知恵を賭けたギャンブルに似て(2006.04)

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2007.03.22

真に受けすぎだと思うよ。

トラックバックできないようですが。
ぼくはその方法でサバイバルしたくないんだ : ひろ式めもちょう

具体的に言えば、梅田氏のことばを賞賛し、自分のinterest=利益にかなうものとして盲目的に受け入れ、賛美する人々のものすごい規模の渦だ。

「渦」ができてゆくさまをたまたま目撃したがためにその得体の知れなさに戦慄する、というのはまぁ共感できるのですが、じゃあその「賛美」が"現実の未来"にどれほどの影響を与えるのかといえば、ほとんど「ない」と思いますよ。
真剣に捉え過ぎだと思います。

同所より:

(「人をほめろ」というエントリを支持する人がなぜ他人の粗探しをするのかという疑問はさておき)

さておくところじゃないですよ。
その部分こそが鍵であって、だからそんなに心配するほどのこともないんです。

ワイドショー感覚というか、たとえば(ポジティブな)感動に同調した次の、あるいは次の次のクリックで、[これはひどい]という憤りに同調する、なんてこと、珍しくもなんともない話じゃないですか。
……という表現に反発する人も、自分のネットサーフィン(死語)の軌跡を振り返ってみれば納得のいく話でしょう。
巡回先の全部が全部を、そのときに感じたはずの何某かの感情を、憶えてなんかいられないし、実際憶えていないでしょう?

自分がそうであるように、みんなも(どんなに長くても)数週間もすれば忘れてしまうものです。
もちろん数人くらいは長く記憶にとどめるかもしれませんし、私だって私の書いたことが誰かにとってはそういう位置にあってほしいとは思いますけれど、でもそれはとてもとても小さな確率であって。

どこか(誰か)に取り上げられたりして"嵐のような"アクセスがあったりすると、取り上げられた側はspetialな感情を持ってしまいがちなんだけど、取り上げた(&そこ経由でアクセスした)側にしてみればその日取り上げた(見て回った)何十のうちの一つに過ぎないわけで。
その意識の落差が引き起こす悲喜劇からはひとつの物語ができそうですがそれはまた別の機会に譲るとして、
ともかくみんな、それ"だけ"に注意を払っているわけではないのですから、未来の世の中への影響という点では(直後の反応(の大きさ)ほどには)そんなにびっくりするような変化はまず「ない」と言っていいのではないかと思います。

純粋に娯楽として見ていいと思いますよ。
そういうハラハラ感も含めて、かもしれませんけど、真に受けてばかりでは体が保たない。

もちろん例外というものはあるわけで、個別具体的な攻撃目標(苦笑)とかあるジャンルの消費行動なんかに対しては「ネットの力」を見せ付けるような事態も起こりうるでしょうけれど。

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2007.03.19

画面で見る自分、記憶に残る未練。

ひとつ前のエントリ:[自分のブログを自分は見ない]にはたくさんのトラックバックその他での言及を頂きましてありがとうございました。

各位には謝意を兼ねてコメントしましたので重ねてトラックバックは送りませんが、そのまとめ、並びに追補など。


改めて感じたのは「自分のブログの一番の読者は自分」と、「自分に向けて」が占める割合が高い方の多さ。
であるならば「画面に映る自分(の過去記事)」にそれぞれの感慨を持つこともあるのだろう、と想像はできます。

ですが……それはやはりどうしても自身には実感できなかったりします。
「読まれてナンボ」と言い切るのはそれほど珍しいのか、今度は前提のその部分を問いかけてみたくなりました。


「読まれたいと思うなら(PDCAを回すように)読み返さないとは何事か」と批判が飛んできそうですが、書き忘れていたことの一つ、
過去に書いた文章の中の「結局伝えたかったこと」はわりと長く憶えているものです、反応はおろか大抵は読まれもしなかった、という、結果伝わらなかった未練として
そして文中リンクとして二度三度リベンジを試みるのですが...

……という未練たらたらで読み返したりすると画面に怨念を注ぎ込みそうで(笑)。


個別にすこし。

まなめさん、yas-toroさん、
ブラウザのホームに設定とは……正直想定外でした(^^;

玄倉川の岸辺 自分のブログは見ない

ネットには自分のブログより面白い情報がたくさんありすぎる。

同意(笑)。書くより読むほうが正直なところ何倍も楽しいです。
でも、(そして寂しい結果も予想できるのに)なぜか「自分の視点」も書いてみたくなるんですよね。


そして書き忘れていたこともう一つ。 「(ブログの)サイドバーのコンテンツ、もしくはそもそもの要不要」の話題で、「自分用」と「訪問者用」で考えを分けている記事をいくつか見て、「自分用として」という考えが私には新鮮だったのが元々のきっかけ、でした。

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2007.03.16

自分のブログを自分は見ない

「自分のために書いているのです」という方々からすれば信じられないかもしれませんが。

ちょっと自分語りをかねて。
みなさんは普段、自分で自分のブログを見に行きますか?
わたしは自分で「オモテ」から、即ちみなさんが見ている『http://concorde.air-nifty.com/first/なんちゃら』なるURLで表示されるモノを自分ではほとんど見ない(見れない)のです、常に「管理画面からの姿」でしか。

もちろん、記事を作成/修正した、あるいはデザインを変えた直後の表示確認はしていますが、それ以外では。


理由1:合理性。
変化(反応が来るとか)をチェックするのにも、それがおかしげな(缶詰の名前では呼ばぬ!)ものだったら、「オモテ」で見てから対処するよりは最初から管理画面から見ていれば即アクションが取れますし。
というか直接の反応なんてほとんど期待できないわけで、そうなると心の支え(!)はアクセス解析ですし(苦笑)。

理由2:アクセス数の無視できない誤差になる。
……はい、こちらの理由が大きいですけどね。
だいたい一日数回管理画面にログインしているわけですが、それを「オモテ」から見たとなるともう数%単位の誤差になりますから...
そりゃ256が260になるくらいなら気にしないかもしれませんが、
36を40に"してしまう"のは、ね...
知りたいのは「訪問していただいた」数ですし、累計から自分の分の1割を引いて・・・なんてのは自分がさみしいし。

自分の過去記事を引っ張ってくる(たいていは文中リンク用にURLだけで事足りますが)ときや、その確認も兼ねて過去記事を読み返すときにも(方法は割愛しますが)アクセス数に影響しない方法を採りますし。


まぁ一般化できるわけもない後者の理由はともかく、何度か書いているように「自分に向けて書いている」つもりはないし「読まれてナンボ」という想いが強いゆえですが、同様に(どちらかというと)ひとに読まれることを望んでいる皆さんはどうなんだろう?と。


みなさんは普段、自分で自分のブログを見に行きますか?
すこし、知りたくなりました。

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2007.03.15

続・「悪いのは奴らだ」

「悪いのは奴らだ」(2006.11)の文章を打っているときに念頭においていたのは実は『「無断リンク禁止」問題』だったりしました。


"リンクは自由である"派は"無断リンク禁止"派に「リンクされたくなければそれなりの仕組みを作って対処すべきだ」と言うのですが、もし私が"無断リンク禁止"派だったとしたらこう言い返すだろうと思ったので。
「なぜ正しい側がこまごまと策を弄さなければならないのか」、「悪いのは奴らだ」。

"リンクは自由である"派も同じフレーズが使えるのですが、「なぜ正しい側がこまごまと手順を経なければならないのか」と。

ekken♂ : NGワード・異文化を認めろ

「異文化を認めろ」は「オマエの文化は認めない」の言い替えである。

「悪いのは奴らだ」と双方が信じている(ように見える)。
こりゃ難しいわ、と思う。
……という感想だけではアレなので。


個人的にはこの問題に代表されるように「文章の内容そのものではなく、むしろそれ以前の作法の問題を主目的にして」ワイワイやる(できる)のがネット本来の使い道(醍醐味)だと思う部分もあるので(リアルに(傷が)波及しない限りは)もっとやれー、という点なきにしもあらずですし(笑)、夢があるといいながらこういうことを提案するのは矛盾ではあるのですが、もう"対立する文化圏"同士は物理的・ネットワーク的に分けてしまったらどうだろうかと。

「無断リンク禁止」と「リンク自由」、
「何かしら"仕事"に関係している」と「純粋な趣味余暇娯楽用途」
「喧嘩上等・馴れ合いうぜぇ」と「ネットでまで殺伐としたくない」、
「世の中に物申すため」と「ネットではネットのことを」、
「絶対実名主義」と「匿名でもいいじゃない」、
等々……
例示しただけで2の5乗=32通りになりますか、それぞれ独立のネットを構築して相互不可侵にする、ような。
私?もちろん全部後者です。

対立を避ければいい意味での思いがけない出会いも減りそうですが、少々コミュニティを小さくしていったところで「発想の多様性」はそこそこ残るような気もします。根拠があるわけではないですが。

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2007.03.12

君も社説子 我も社説子

ああブログ 正論の文字列 火の色す
君も社説子 我も社説子

音読するところを想像しただけで舌を噛みそうにさせてしまってすみません。
……えーっと、パロディ元はお分かりになりますね。


ネコプロトコル - ネットは、キレイになるようにできている。

ネットのギロンを見てますと、すごくかっこよくてキレイな正論を言う方というのがいてまして

世の中─とくに社会問題や政治行政方面の─に対してなにか一言申そうとすると、どうしても新聞の社説のごとき(といっても口調の硬軟は千差万別ですが)"天下の正論"のような論調になりがちではあるのかもしれません。
それぞれによる、それぞれなりの「社説」。

……というのが今回の舌を噛みそうなタイトルの由来。

あ、もちろん、どこ(の論旨)が「本当に」正しいのか、というのはここでは問題外ですよ。

せっぱつまってきて「正論だけど、そんなことリアルでも言えるんかよ!」と捨てゼリフを
言えるでしょう。 居酒屋談義、という言葉に代表させますが、くだけた場で交わす世間話にはそういう成分が昔からそれなりにあったでしょうし。


で、会話と違って記録に残る「キレイな」文字列があふれていったとして・・・

そんでキレイなネットに接続しているうちにどのユーザの脳もだんだんとキレイ側に飲み込まれ、非ネット時にも周囲にキレイが漏れ出ていっていつしか人類全体がキレイになってしまうのじゃないかしら。

「キレイゴト」は実現可能性がない(考えない)から「キレイゴト」ではないのでしょうか(苦笑)。

だいたい、居酒屋談義は勿論のこと社説でさえ、それに対して実現可能性や発言責任が本気で問われることなんてないですよね?
ならばわたしたち一般ピープルのブログエントリを、読み手が実現可能性や発言責任を(本気で)考えることの有り得なさが分かると思うのです。
ですから、その点において新聞の社説と「ネットのギロン」と居酒屋談義に本質的な差はないと思うのです。
ということを念頭に置いて居酒屋談義と大差ないのに「炎上」したりするのはある意味不思議だと思っているのですが(どうもそうは読まれなかったようですが)。


つまり言いたいのは、というか、ここ数ヶ月のベースにしてきたつもりなのですが、
(今を思えば遥かに『濃かった』昔でさえ成し得なかった)「従前のリアルでは変えられなかった"世の中"をネットで変える」などということが(人は増えたとはいえその分独自性が薄まった今の、これからのネットで)起こることがあるものか、ということ。


ネットそのものについて、あるいはある種の文化芸能方面、そして一部の消費活動方面など、『ネットの影響力』がかなりの部分を占める分野というのも当然あるわけでして、だから「ネットのギロン」なんてものはそちらに特化していけばいいのに、と思うことがあります。

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2007.03.07

それぞれの舞台、それぞれの名前

実名(と属性)を敢えて名乗らない理由、ですか?
私には夢があるからです。
そして、むしろその方が「ネットでの」正しい振る舞いであると信じるからです。


la_causette: 「実名」を敢えて名乗らない言い訳には説得力がない

銀行の窓口に行ったところ窓口の女性の名前が「棺桶銀行員」云々というハンドル名でしか表示されていなかったら、その銀行自体が変な銀行扱いされます。

確かに「変」ですね。
ただし、そういう銀行(でなくても同様)が信頼に値しないかどうかはやってみないと分からないでしょう。
現実に実名「ではない」名前で仕事に取り組むことが義務付けられている会社が存在するのですから。それなりの規模と知名度を持って。

公式には勿論のこと、本音にもその理由が「安全保障」目的ということはないでしょうが、実名(戸籍名)でなければ信頼や説得力はないとする意見への一つの反証にはなるはずです。


……という極論(ではありますが詭弁ではないこともご理解いただけると思います)を持ち出すまでもなく、『それぞれの舞台ではそれぞれに応じた名前で活動する』ことそれ自体については少なくとも非難のニュアンスでは受け止めていただきたくないと思います。

その代わり、といいましょうか、その名前で活動するに相応しい領域、というものが限定されてもいいのかもしれません。
これはごく個人的な感情ですが、ネット外の身辺雑記や時事問題的なものを書いてしまったときには、「書いた」ではなく「書いてしまった」という、非常に大げさな表現ですが「道を外した」ような気分になることもありますもので。

本来何を書いても「自由」であって、ときに熱気が臨界点を超えてしまうことがあるのが根本的な問題だとも思うのですが……

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2007.03.02

弥生三月お別れの月

拝啓

「弥生三月春遠からじ」などと申しますように、時候の挨拶では希望を感じさせる文例の並ぶ時季となりましたが、
既報の通り、今年、2007年3月は、ついに、「フォーラム@nifty」の終わりの月となりました。

パソコン通信「NIFTY-Serve」として始まってから二十年、ネットにおける先達の方々におかれましては、思えば「フォーラム」がこの世界への第一歩であったなあ、という懐かしさを感じられる方も決して少なくないのではないかと存じます。

私のささやかな巡回先の現状を眺めますに、悲しいかな、その(閉鎖の)方向性の正しさを示すがごとき静けさのままで終わりのときを迎えようとしておりますが、「ニフティのフォーラム」に書き込めるのは今月が真に最後となります。

私がそうであるように、必ずしも良い思い出ばかりではないと申される方々もまた少なくはないのではないかと存じますが、もしその「ニフティのフォーラム」という言葉に何某かの郷愁がお有りであれば、ぜひとも"最後の足跡"としてご参加いただければと存じます。

春とはいえ、まだまだ寒い日も続きます、皆様にはご自愛のほどを。

草々

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