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2004.04.30

微妙な夢-「ネットの引力」考

ネットに何かを書くことで、

世界中に見てもらえたり、
リアルではできないような際どいテーマでも真剣な議論が出来たり、
リアルの人生が(プラスに)変わるような"衝撃の出会い"があったり、

・・・ということが自分の身に起こることはまずありえない。
・・・かといって全くの幻想だともいいきれない。

その微妙なバランスが、「ネットに何かを書く」ことの引力になっているような、そんなことをふと思ったのでした。

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2004.04.24

I have a dream

ハンドルネームは現実社会における、世代・性別・出自その他あらゆる「属性のしがらみ」からの解放を意味した。
この重大な発明は人を縮み上がらせるレッテルの炎の中で焼かれた何百万という人への信号光となったのだ。

しかし、数百週間後、人はまだ自由ではなかった。
数百週間後、いくつかのネットワークコミュニティの生活はまだ実名主義という手かせと、属性から想起される先入観という鎖によって不自由なままである。
数百週間後、匿名人は対人的繁栄の広大な海の中央にある、無数の貧困の孤島に住んでいる。
数百週間後、現実世界での属性から自由になるために実名を名乗らない人々はまだネットワークの社会のいくつかで苦しみ、自国にありながら、国外追放された気持ちだ。

しかし正義の場所へリードする暖かい敷居に立つ人々に私は言わなければならないことがある。
当然の権利のある世界を得る過程で、私たちは間違った行為を犯してはいけない。
若さと憎悪のカップから飲むことによって、自由への渇望を満たそうと努めるようにしないでおこう。

私たちは永久に尊厳と規律の高い水準の努力を行わなければならない。
私たちは創造的な抗議が追跡不能かつ非生産的な荒らしへ退化することを認めてはいけない。

ハンドルネームの基礎的な可動性が、より小さなゲットーからより大きなものまである限り、私たちは満足することができない。
私たちの文章が、「実名と所属を名乗れ」と書いた立て札によって、その属性の先入観によって彼らの個性を覆い隠され、尊厳を奪われる限り、私たちは満足することができない。


友よ、私は今日どんな困難や挫折があっても、なお私には夢があると申し上げたい。
それは、ネットワークコミュニケーションの夢に深く根ざした夢なのである。

私には夢がある。いつの日か、このコミュニティが立ち上がり、ネットの信条の次の言葉の真の意味を貫くようになるだろう。「私たちはこれらの真理を自明のことと考える。即ち、ネットワークコミュニケーションの場において全ての参加者は平等につくられている。」

私には夢がある。いつの日か、すべてのネットワークコミュニティの赤土の上で、かつての実名主義者の文章達とハンドルネームの文章達が、兄弟のように仲良くまともな議論のテーブルに着くことが出来るようになることだ。

私には夢がある。いつの日か、先入観の抑圧に満ちた掲示板やMLでさえも、自由と正義のオアシスに変えられるだろう。

私には夢がある。いつの日か、すべてのコミュニティにおいて、私のキーボードから入力された文字達が、世代・性別・出自その他あらゆる「現実社会における属性」によってではなく、ネットに書かれた文章のみから判断される人格によって評価されるネットワーク・ワールドに住めるようになることだ。

私には今日夢がある!

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元ネタは一般ぢょ~しき試験に出そうなほど有名な演説なので出典はおみっと...しようと思いましたが邦訳の参考にした場所にリンク。
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なんか集積所があるようなのでトラックバック発射~!

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2004.04.23

ただ、画面に映る文字のみで。

匿名vs実名、の話題が広がっているらしい。
繰り返されてきたし繰り返されるであろう話なので、乗ってみる。

私自身は完全に「匿名派」なのです。というより「匿顔性」という言葉を使ってきたのですが、私というイメージを、書いた言葉からのみ判断してほしいと思っています。書いた言葉を、年齢・性別・姿かたち・出身地・現在地・家族構成・学歴・職歴・etc.etc...などという現実社会での「属性」から来る先入観のフィルターつきでは、読んでほしくない。

このネットワークの世界というのは、そういった「属性のしがらみ」から解放されてコミュニケーションが出来る場だ、と私は思うから。

皆さん--たぶん現実社会だったら私ごときが絶対に対等な話など出来ることのない方もいらっしゃるでしょう--と対等に気楽におしゃべりしたり時には噛み付いたり(^^;できるのは、お互い顔(つまり年恰好)"すら"も知らないでいるから、という「匿"顔"性」あればこそ、だと。

少しでも議論・反論をしようと、また読もうとしたときに、互いの素性を「知っている」がためにそれに依拠する先入観(いいかえれば色眼鏡とかレッテルとか)のフィルターで見て/見られてしまわないか、それはお互い(の文章)の理解にとって妨げになりこそすれ助けにはなりえないのではないかと思っています。

ですから他人のプロフィールも気にしないし、むしろしたくない。
それが想像できるような身辺雑記を「目にしてしまった」ことを後悔したり...もないわけではないです。


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2004.04.20

我とひとしき人しなければ~「覚悟」ふたたび


自分と同じ人は居ないのですから。

普通の人が普通に何かを書いたとしたら、八割方、とまではいいませんが「予想せざる反応」のほうが半分以上にはなるのではないでしょうか、

自分の思う「核心」には触れられもしなかったり、
考えてもなかったような「曲解」をされたり、

自分だけでは気付くことのなかった新しい発見があったり。

「ミウチ」で閉じているのでない以上、「合わないヒト」も来ます。必ず来ます。何かについて厳しい表現をしたのだとすれば、見知らぬどこかで槍玉に挙げられているかもしれないのです。

合わないことを説明しても、その思いなど伝わることなく(もともと"合わない"んだから当然)、双方ただただ泥沼にはまりこむだけかもしれない。
さらりと受け流したつもりでも、はぐらかすなと怒らせる結果になるだけかもしれない。
ただ黙殺しても、逃げるなと怒らせる結果になるだけかもしれない。


みんな、楽しいつながりを求めてはじめるのだと思う--ホントにそうなのか最近疑問に思い始めていますが(苦笑)--のですが、始めてしまったが最後、「いいことばかり」で終わることは、たぶん、ないと思います。


思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ 業平

「伊勢物語」に出てくる和歌ですが<自分と同じ人など居るなずもないのだから、思いなど口にせず黙って去る>といった意味でしょうか。


それもまた出来ないとするなら。
「ROMに徹するだけでは得られない何か」は確かにあるかもしれない。だけど、それにたどりつくまでの、あるいはそれより数の上では多いかもしれない「イヤな何か」に遭う"覚悟"もまたあったほうがいいのではないでしょうか...無邪気に始めて傷つく前に。


決していいことばかりではなかったから...まだこうして続いているのだから大したことではなかったとしても。

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2004.04.13

そのやりとりは、何のため?

つらつら書いた直近のいくつかは、ブックマークして毎日見ていたココログ某所(あくまで某所としておきます)の荒れ様を見てのことなのですが、それとば別の激しいやりとりとかそのやりとりに対する感想のやりとり(あぁややこしい)やら何やらでまたひとつ。

ネットで(現実社会では関わりのない相手と)やりとりをし、そして求めることの、

目的は何ですか?
そこで何を求めていますか?
自分の周りにどういう世界を作りたいのですか?

どこかが荒れている--いろいろなタイプがありますが、ともかく穏やかならざるやりとりになってしまっている--というのは、私には中の理屈がどうのこうの以前にそのこと自体が悲しくみえてしまうが故に、カネ払ってまでなんでそんなことしますのん、もうちょっと冷静になれません?と書いてきたのですが、...
どうも「冷静に激しい言葉をぶつけている」こともあるような、ないような。

いわばロールプレイでそういう役割を演じている、とか、
誤解曲解されないように考えを伝える訓練、とか、
自身のことばにどういう(誤解曲解されうる)要素があるかを見て頂いている、とか、

単に頭に血が上っているであろう相手の反応を引き出す、とか(爆)

そういう目的でわざわざ激しい表現を使うこともあるのでしょうか?
まぁ4つめはともかく(笑)もしそういう目的だとすればそのキーボードに向かう当人にとって精神衛生上どうの、という心配は的外れ、ということなのでしょうね。

だけど。
「感情が噴いた」だけなら、もうそれは絶対にヤメたほうがいいと、思います。

~梅雨が明ける頃には、みんなきれいさっぱり忘れてるはずさ~

私もかつて唯一度バトルの当事者になったことがあります。そして・・・今に引きずるトラウマが残りました。
どこで壊れ始めた?と振り返ってみてもどうにもならないものです。
ふとしたことで「己の存在を賭けた闘い」になってしまう。
そういうこと、少なくないと思うから。


私はもう、ゆるいのだけでいい。現実社会では、ありえないからこそ。

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2004.04.07

プラスにはならないなら、せめて。。。

ブログを始めたからといって、偶然どこか有名どころにリンクされてアクセスが急増したからといって、「人生が変わる」とか、そんなことそうそうあるものでもないでしょう...少なくとも、プラス方向には。

ならば、せめて、何かを失わないように、それを第一に考えたほうがよくないですか?

そんなにささくれだって、得られるものは何ですか?

たぶんその期待は外れるし、
たぶんその想いは伝わらないし、
たぶんその話はこじれるだけだし、

・・・たぶんその現実は良くならない。


"のほほん"としたモノだけでつながろう(その前提として読んでもらおう)とするならもしかしたら非常に高度な能力が要求されるのかもしれないですし、現実の生活でそうそういいことばかりがあるわけじゃないからこそブログ--まぁ、個人日記一般ですね--が成り立つ(苦笑)ものかもしれないですケド...

逆に言えばネット上のバトルぐらいで現実の生活にまでそう影響するものでもない(経験者談)かもしれないですけど、前にも書いたように、お金払ってまで?と、思うのですが。

ある程度までならウオッチのしがいもあるのですが(爆)。
「おもしろうて、やがて悲しき...」と。

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2004.04.03

どうか、どうか...

これまでも、今も、これからも、

この画面のなかで見るかもしれない、
この画面を通して参加するかもしれない、
そして、巻き込まれるかもしれない、
すべてのコミュニケーションが...

どうか、どうか、画面をこえませんように、
現実の生活に影響しませんように。

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2004.04.02

重かったの、直りました?

日付変わり前後はどうしようもなく重かった状態、直ったのでしょうか??
私から見る限り直っているようですが...

もっとも直ったと喜ぶのもアレでして、コレが正常なんですが^^;

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