神通力が消えるとき--「ブログの力」の終わり
最初にこの部分に深く共感を覚えたのです:
ブログの「終わり」と「始まり」 - nikkeibp.jp - from ガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く:
ブロガーとなって人的なネットワークは格段に広がりました。職業や年齢も幅広い、さまざまな人と距離を越えて「つながって」います。(中略)そして、ベテランのネットワーカーに会うと「ニフティ時代はね、良質なコミュニティがあったね」「2ちゃんの最初(中期とする人もいる)のころはさー」などという思い出話を聞かされます。(2ちゃんねるについては知りませんが)
ネットワークコミュニケーションの醍醐味を、そういった「日常生活の範囲では出会うことがなかったであろう人たちとの縁」に見いだす、ということに。
それを得たのが時代によってフォーラムであったり(、2ちゃんねるであったり)、そしてブログであったり。
そのブログで、アルファというのか、先頭切って走ってきた人たちの中で、"倦みつつある"人が目につく...らしいですが。
「ブーム」になったがゆえに全体的な内容が薄くなって魅力も薄れて...とか。
それは一般化したゆえの必然、というのが、
「ブログの終わり」? それは「キャズム」を越え、一般化・大衆化によって薄まった時代の到来 [絵文録ことのは]2005/05/26:
ブログは一般化・大衆化した。ブログの濃度が保たれず、「ブーム」という段階を超えた。それが今の「ブログの終わり」論の背景にあるのではないかと思う。つまり、ブログはニッポンのインターネットに「根づいた」のだ。・・・
純粋さを保つには限定された小さなコミュニティを守る必要があり、それが大衆化・一般化した時点で本来の意義は失われ、薄められていく。
なんらかの出来事に「ブログで~」という冠がつくことで、"なにか特別なもの"というニュアンスがあったのが、一般化することで"普通のこと"になり、その冠にあった力が消えてしまう。
遠かったものが日常に近づくにつれ「非日常のドキドキ感」が薄れてゆく。
世間にとって、もそうですが、彼ら(嘆く人たち)にとってもブログが「日常」になってしまったから(魅力が薄れた)、ということになるのでしょうか。
だとすると、ブログが定着するほどに"社会の中での存在感"はむしろ下がってゆくのではないかとも思えるのですが。
・・・もっともこういう話は「ブーム」を支えている(?)圧倒的多数にとってはきっと関係のないことで、誰かが飽きて止める分、また新しい誰かが「始めました」とデビューする、というのがまだまだ続いてゆくのでしょうが、
最初に書いたような、ブログによる「つながり=日常では想像もしなかった世界(の人たち)との縁」を期待するには、そろそろ最後のチャンスになりつつあるのではないか?と、特に[ことのは]の方を読んでいて思ったのです。
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