楽しもうと思うなら、覚悟が必要。
正式タイトル:
「もしかしたら楽しいことが起こるかもしれない」場に参加しようと思うなら、「もしかしたら予想もつかないような反応に凹まされるかもしれない」ことへの覚悟を持ってから。
ハードル高すぎ、というか矛盾しているようですが、現実のことだし仕方ないですね。
むだづかいにっき♂:ネット上で議論を仕掛ける事について(以下引用元はこのエントリ内について同じ):
ネット上で何かに対する考え方を書いた時には、それに対して異を唱える者が存在する事は、むしろ当然のハナシでしょう。こと、ブログという(中略)
そういう物を使っている時点で「あたしの意見と違うことは書かないで」というのはなんとも都合のよいハナシです。
いや、そりゃーね、正論だとは思いますよ。
思いますけど...そういう感情を持つのもまた自然ではないでしょうか。
「議論は好まないです」という宣言を出したのだとしたら、その人は何の為にパブリックな場所において「何かを論じている」のでしょう?
何の為、って、そりゃー、「共感(なり同意なり)が欲しいから」ではないでしょうか?異論や反論ではなくて。
そんなの虫が良すぎらぁ、というのはあるでしょうけれども、「"ブログしてる"中での楽しいこと」というのがそういう(共感が来る)ことを指す、というのにもまた同意できる部分が大きいわけでして。
だって大抵は元来<「遊び」の領域でやってること>じゃないですか。遊びという言葉のニュアンスが悪ければ「余暇」と言い換えてもいいですが、ともあれ自分を鍛えるとか磨くとか、そういう方向の目的意識を持たなきゃならん、というわけじゃないでしょう?
そういう場での「楽しみ」をプラスの反応(だけ)に求めたとしても、その感情自体は責められることでもないと思うのですが。
最近、「荒らし」に対する閾値が低すぎる人が多いな、と思うのです。
(参加しようとする側の)技術面の敷居が低くなった(なりすぎた?)おかげで今までの暗黙のお約束が通じない人が大挙押し寄せて来て古株がプンスカ、なんて...何度繰り返されてきた話でしょう^^;
#だから流行らせるべきじゃなかったんですって...
いっそ「とことん激論OK」なサイト(群)と「読み書きともにあたたかい感情でのみOK」なそれとをネットワークレベルででも相互参照できないように分割できれば(いやむしろ「中の人」を物理層で隔...いやなんでもないです)、とかアホな夢想もしてみるのですが、現実にはそんなことはもちろんあり得ないわけですから「公開しておいて同意だけ欲しいなんて虫が良すぎる」というのも事実。
で、冒頭の"真のタイトル"に行き着くわけですが、これも非現実的だしなぁ。
「楽しめる何かを期待して参加しようとするんですよね。でも、残念ながら楽しめるとは限らないのが現実です。もしかしたら不快な反応を受けることになるかもしれない、その可能性を根絶できないことは忘れないで下さい」
とか何とかアカウント取得時に各社揃ってたっぷり脅しを効かせればちょっとは違うのではないか..というのはそれこそ夢想レベルだし、
消えていった人たちの声は見えないし、
それに打ち克ってきた人たちは打ち克ってきたのだから「なぁに、たいしたことありまへんで」と言う声だけが残るだろうし。
始める前に『「ブログなんて気軽に始めるようなもんじゃない」とわめくブログ』を気にかけてくれるわけも無いし(笑
もちろんブログに限らないのですが、ブログは反応が見えやすい、という程度のことでしかないし。
どこかに文字列を出力するなら、ということ。
以上、ごく初期に書いたことの焼き直し。
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