個性の実力-「理想のコミュニティ」改題
ちょっと長いけど引用。
ちなみに「オンライン書店」なるもので初めて買った本。たしかbk1。
店というものは、結局は主人が客を選ぶのである。客が店を選んでいるように見えて、実は主人の個性がおのずとそこに集まる人を限定していく。もちろん来た客を追い返すわけではない。一見の客にも丁寧に応対しはするが、合わない客なら客のほうから来なくなる。玉村豊男『回転スシ世界一周』TaKaRa酒生活文化研究所/世界文化社:2000年
(中略)
いっしょにいて心地よい人間と楽しい時間を過ごしたい……という共通の思いを手がかりに、微妙なやりとりの中にたがいの距離感をたしかめあう。違い過ぎてはつきあえない。違わなくてはつまらない。それぞれの差異と相違はそのままに残しながら、そこにひとつの共感を見出して、さまざまの人びとがある空間に集うようになるのである。
<強調部は引用者による>
(注:世界文化社サイトには紹介なし:光文社・知恵の森文庫版(2004年発行)へリンク)
そう、
居心地のよさ、が根本にあって。
異論反論を表明するにしても、なんというか、普段の共感がお互いのベースとしてちゃんと認識されていた上でのもの、というのがありえるのではないか、というか、あったらいいな、というか。
・・と、後段を<理想のコミュニティのあり方>として強く共感するところがあって長い間予定稿としてとっておいたのですが、取り置いて読み返すうちに前段が気になって。
主人の個性に合う客がどれだけ残るか、残ってくれるか。
主人の下に集う・・・ブログをはじめとする個人サイトでも同じことが言えるでしょう。集客はすべて主人の個性ひとつにかかっている。
人気(にんき)であれ人気(ひとけ)であれ、集まるも集まらないも、それが「個性の実力」なんだろうな、と。シビアなものです。
そういう見方からすると、『多くの「読者」を得よう』なんてことがいかに無謀、というか分不相応なことであるか、ということになるのかもしれません。
もし文章ひとつで「共感する者」が百や千の単位で集まってくるようなら、我々はとっくの前に文筆業として食べていけているか、何かのカリスマなどと呼ばれているだろうから。
我々はそんな者たちにはなれないし、逆にいえばなれないからこそ彼/彼女らの存在が成り立つのでしょう。べつにそのことで卑屈になることはないのであって、このフィールドでは彼/彼女らに分がある、というだけのことで。
「いつも読んでくれているひと」がもし二桁に届いてくれたらもう充分に幸せを感じるべきなんだろうと、我々にとっての「伝える」「伝わる」というのはそういう範囲のことなんだろうと、そんなふうに思い始めています。
『大きい数への夢想』から自由になったわけでは、もちろん、ありませんがね。(苦笑)
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コメント
>「いつも読んでくれているひと」がもし二桁に届いてくれたらもう充分に幸せ
ほんとうにそう思います。その意味では充分に幸せですね。
自分の書いたことが,誰かに確かに届いた,と実感できたときの気持ちは,
数字で量れるものではありません。
そうやって自分に言い聞かせています。毎朝アクセス数チェックするときに(笑)
投稿: cacho | 2006.03.10 17:28
「こんなもんでは足りない」という気持ちは確かに原動力ではあるのでしょうが、どこかで立ち止まるというか、『言い聞かせ』ないと、いつまでも不満なままになっちゃいますからね(苦笑)
投稿: Tristar@管理人 | 2006.03.11 11:48