原動力は、叶うことなき夢への想い
顔のないアクセスというのはちょっと不気味だ。とはいえ、すべてのアクセスに顔があったらそれはそれで困るかもしれない。
うん、実際困ると思いますよ(笑)。
だって、そのすべてに対応、なんて、出来るはずがない。
……なのに、願ってしまう。
定期/不定期にわたしが見てまわるブログに「直接の反応の少なさ」を嘆く記事が多く見られるような気がするのは"類は友を呼ぶ"のか"同病相哀れむ"のか単にそういった記事ばかりが記憶に残るせいか。
……きっと増えれば増えたで応対しきれなくなるのに。
個人ニュースサイトが更新されると同時に、水道の蛇口をひねるようにしてアクセスの流入が始まり、やがてピークを迎えて、数日後に終息を迎える。(中略)そんなことが続くうちに、だんだんとアクセスの流入に無感動になる。(中略)通勤に慣れるとともに電車の混雑に何らの感懐も抱かなくなっていくのと同じように。
感動を覚えていたはずの数字にいつか麻痺してしまうであろうことも、
常に自分自身が満足できる(反応の)レベルが上がり続けてゆくというのは『余暇のもの』としてどうなの?という自問の答えも、
ほんとうはこれが実力だということも、
みんな頭では分かっていても・・・
アップロードし続ける。
カウンタの数を好意の数と信じながら、
きっと満たされることのない『「自分が賭けた熱意に見合うだけの評価と反応が来る日」への希望』を原動力にして。
こうして文字にすると、何と「痛い」ことでしょう。
でも、「違う!」とも言えないでしょう?
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コメント
こんにちは。TB頂戴しました。
うちの記事のコメント欄にも書いたんですが、僕のいう「顔」というのは必ずしもはっきりとした「反応」とか「声」というのともちょっと違うような気がするんですよね。
面白かったとか、つまらなかったという反応そのものというより、「あ、あの人が読んでくれたんだ」という単なる事実、といいますか。
もっとも、こうしてTBをいただけたりっていう、はっきりした反応も、それはそれでとてもうれしいんですけどね。
投稿: Akky | 2006.04.22 15:44
「反応」ということを前面に書いたので話がずれるかなとは思ったのですが(^^;まぁ触発されたということでTB送りました。
でも、単なる(といっては失礼ですが)「顔」であっても見えたらどうしても気にしてしまうと思うのですが、文字通り「顔色を伺う」というか。
で、そのすべてへの対応なんてできないし、その「できない」ということで心苦しくなると思うんですよね。
そちらのコメントに書かれていたように「(数が)さーっと引いてしまう」のってものすごく寂しさを感じるときでもあるのですが(苦笑:しようと思ってリカバリーできないしね)、そこに「顔」があったなら...あぁ考えたくない(^^;;;
投稿: Tristar@管理人 | 2006.04.22 23:28