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2006.05.31

風に吹かれて

コトの始まりは "Where have all the bloggers gone?" というフレーズを思いついたこと。
試しにぐぐったら膨大な数がヒットして意気消沈。考えることは同じらしい(苦笑)。
でも「ブログの次」がはっきりしてきたら書いてみるかも。

そんなこんなで方針転換。


フォーク・ソングの「名曲」といわれる
ボブ・ディラン『Blowin' In The Wind(風に吹かれて)』から着想。
(ピーター・ポール&マリーのバージョンしか聴いた事が無かったりしますが)




いくつのエントリを上げれば

ひとはブロガーと呼ばれるのだろう

いくつブックマークされれば

ひとは満足して眠れるのだろう

そしていくつの迷惑な広告トラバが飛び交うのか

それが永遠に禁止されるまでに

仲間(とも)よ
答えは風に吹かれている
答えは風に吹かれている


どれだけのアクセスを集めれば
それを気にしない境地に立てるのだろう
どれだけの目をひとりが持てば
関連する話題を読み切れるのだろう
だけどどれだけ×を押さなければならないのか
見たくないものを見ないために

強敵(とも)よ
答えは風に吹かれている
答えは風に吹かれている


幾度アルファブロガーを仰ぎ見れば
かれらのように書けるようになるのだろう
幾年月続けることが出来れば
伝えたい相手に伝えられるのだろう
そして幾度怖い思いをすれば気が付くのか
あまりにも多くを書きすぎたと

仲間(とも)よ
答えは風に吹かれている
答えは風に吹かれている


※原詞も訳詞も探せばいっぱい出てきますが著作権的にどうなのか不明なため参考元は出しません

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2006.05.26

「ブログ」の読み方

※ブログ論ではございませんのであしからず

『「画面に映る文字」の世界』のわりには読み上げソフトを使わなくとも心の中脳内で発声していることが少なくなかったりします。発声されることなど考えてもいなかったパソコン通信時代のハンドルネームで読みに困らせたことも今は昔。


私は関西人です。
私は「ロ」にアクセントのある「ブグ」と言います。
いま私は関西には居ません。
ここらの人は平板ですがやや「ブ」にアクセントのある「ログ」と言います。
聞くたびにものすごく違和感を感じるのです(苦笑)。

たとえば柿と牡蠣、赤と垢のイントネーションも(生まれ育った場のものとは)完全に逆転していたりするので、これは方言のひとつと考えていいのかなと思ったりしますがどうなんでしょうか。


脳内発声もう一題。

(笑)。
もともと「(笑い)」であり、某巨大掲示板群で「(藁)」に転化し(今はもう死語?)、究極の短縮形「w」となっているわけですから
「(笑)」は「わらい」と読むのが"正しい"のでしょうが…

なぜか昔から脳内発声は「しょう」です。もちろんタイプも「しょう」で変換しています。

そして「w」は「だぶりゅ」。
連続して「wwww」だと「だぶだぶだぶ…」と...
皆さんの脳内ではどんな感じでしょう???

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2006.05.22

ともあれ笑顔の終章に

tapestry @ Hatena - 5年続ければと、その周辺を読んで思ったこと。

この場から離れなかった、それだけのおかげです。

水を差すようで悪い(のでトラックバックしない)のですが、

離れなかったの?
離れられなかったの?

いや、まぁ、そんなこと大した問題ではないのですが、
その終わりに、あるいは終わった後に、「やってて良かった」と笑顔で来し方を振り返ることができさえすれば。


フォーラムが9年半、
FFがもう3年越え、
ブログが2年半。
我が来し方を振り返ると「止めなかった」より「止められなかった」という表現の方が合うのですが(依存症的な意味で)。

「もし、その場にいるのが自分として苦痛じゃなければもう少し流れに任せて続けてみたら」

苦痛じゃないぶん余計にタチが悪いと思っているのですが(笑)
他人には三日坊主を薦めたりするのもひとえにこれが「依存だ」という想いがあるから、で。


それでも、私も、私たちも、続けていれば、いつか笑顔の終章を迎えることができるでしょうか...?


藤原伊織『ダナエ』(乱歩賞作家 青の謎(講談社:2004年)所収)で読んだ、
萩原朔太郎『乃木坂倶楽部』の一節という(すみません原典未確認):

我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり。

たまに心配になるのです。
いま何を失っている?
得たものと比べて、はたして良かったのか悪かったのか?

終わってみないと何一つ答えられないような気がするから。

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2006.05.19

そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿

叶わぬ、といってもなにかに禁止されているわけでは勿論ないのですが。


「三日坊主対策」とか。
「続けるコツ」だとか。

むしろ知らずに「雰囲気を味わっただけで終わる」方がいいかもしれないですよ。


三日坊主を"克服"したあとに待っているのは、

書けども書けども消費され(過去ログの彼方へ)消し飛んでゆく虚無感を感じても、
書けども書けども99%は玉石の「石」と見做される現実に絶望しても、
さまざまな悩みや疲れを抱えときに傷を負い誰かを傷つけながらも、
あるいはネタが尽きたことさえネタにしてまでも、

体力ならぬ耐力の限界まで-ときに個人情報を蓄積しながら-なぜか自らを止められずに走り続けてしまう世界。


タイトルでは各位に配慮して(笑)「我が姿」としましたが、
『これからブログなるものを始めてみようか』と思っている皆さんにおいては、
悩み疲れたエントリを織り交ぜつつそれでも続く数多のブログのことを、
損得勘定や生産性といった観念が崩壊してこその「趣味」であるはずが
何故か元を取ろうと際限なく足掻く私たちのことを、
反面教師と受け取るべきです。


そして……悩み疲れてもなかなか止められない同輩の皆さんへ。
自分たちのことはいい(今更どうしようもないし(苦笑))としても、
せめて後に続く者達を少しでも減らしたいとは思わないですか?

もう少し大きな声で伝えてもいいのではないかと思うのですが、
「こちら側に来るのはもう少し慎重になったほうがいい」、ということを。

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2006.05.18

(FF11)3年(とちょっと)目

1年前

きっと来年もこのまま...

その通りになりました。

2006/05/16現在(プレイ開始3年と1ヶ月と10日)

チャット回数:144363(昨年125125:以下同じ)
NPCに話しかけた回数:23829(18357)
PT回数:672(501)
アラ回数:123(65)
戦闘回数:26794(19919)
戦闘不能回数:232(152)
倒した敵の数:21321(16162)
GMコール回数:0(0)

黒75(75)白45(42)竜30(25)
赤18(18)戦18(14)シ17(0)
忍13(0)暗12(12)モ12(9)
詩12(12)獣2(2)召0(0)狩ナ青0(-)
(0:ジョブ取得しているがなったことがない)

調28(25)釣22(20)錬29(24)他4以下

バス/サンド/プロマシアM終了
ジラ:空月○(AA・神威とも未経験のまま)
バリスタ/裏/リンバス未経験のまま

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2006.05.14

「ブログの」三日坊主対策?

ITmedia News:どうしてブログは三日坊主になる?

『他のたいていのことは(熱意か惰性かは関係なくとにかく)続けることができる』のに『ブログ「だけ」は(とくに炎上したとかそういう要因もないのに)三日坊主になる』というひとへの提言なのでしょうか?

……そんなひと、いるのかな...

逆パターンもあまり居られないような気がしますが。軒並み飽きっぽかったがブログ「だけ」は続く、というの。

以上根拠なし。素朴な疑問ただそのまま。


『「三日坊主で飽きておけば・・・」と後悔することがないとは限りませんよ』といつもの毒を忘れずに。

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2006.05.13

ブログ論とは、失敗学のようなもので。

あんたジャージでどこ行くの: 喜怒哀楽のないブロガーはつまらない

あのさあ、ブログ論って「俺はこんなブログが面白いと思う!」とか「こんなブログはつまんないから、もっと面白いこと書こうよ!」とか、そういう物だと思うのですがどうですか、みなさん!?

はい、違うと思います!

ブログ論というのは、先人の例からなにかを得る、というか、有り体に言えば失敗学のようなものではないかと思っています。こういうことがありました、そこにはこういう要因が潜んでいたようです、といった類の。
ですから感情的な調子で書くのはひとつ間違えばいわゆるバトルウォッチになりかねないですし、淡々と記す方が多少なりとも説得力が増すのではと思っています。


感動の軌跡をただ書いていれば良い。書いてる本人が何かを感じ、興奮し、面白いと思った事を楽しんで書いていれば良い。

よその言語圏のことは存じませんが、日本社会で日本語で書くブログというものはそういうもので良いのだとは思いますが、その「楽しむ」にあたっての心構え、護るべきことだとか覚悟1だとか覚悟2だとか覚悟3といったものが必要かもしれないですよと。むろん確率的にはそんなにびくびくするほどのことはないとしても。


僕はもうあまりブログ運営の細かな技術には興味が無い。僕自身が、ブログ論から遠ざかりつつある最大の理由はここで、「俺興味ないもんねー」というのが、この記事を書いた動機でもある。

ということはおそらくそういった機微のようなものを体得されたからではないでしょうか?
厳しいことを(とくに意識せずとも)避けるなりなんとか耐えるなりできそうだ、というメドがついてはじめて「楽しんで(ブログ界に)参加する」ことができるのではないか、と、そんなふうに思っています。

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2006.05.11

トラックバックURLから推測したココログ総投稿数の推移(1000万編)

※あくまで「トラックバックURL末尾の数字が通し番号」と仮定して

100万という「多さ」にびっくりしてから2年足らず。
ついに桁が1コ上がりました。8ケタ。1000万。

サービス開始:2003.12.02
100万:2004.07.20(頃と思われる):約230日
200万:2004.11.18:約120日
300万:2005.02.19:93日
400万:2005.05.05:75日
500万:2005.07.17:73日
600万:2005.09.18:63日
700万:2005.11.09:52日
800万:2006.01.04:56日
900万:2006.03.08:63日
1000万:2006.05.10:63日

(末尾の日数は各100万区間に要した日数)

グラフ

*グラフの末尾数字サンプルは自分の全投稿(同一日に複数投稿した場合は最後のもの)


トラックバックを受け付けないものも含めれば今年に入ってからの平均でココログ(フリーを除く!)だけでだいたい1日に17000前後のエントリがアップされている計算に。

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2006.05.10

オフにまつわるミステリー

本来『これからオフる予定の方へ』というタイトルだったがさすがに止める。
でも一読をオススメ。と言ってみたかったり。
※あ、読後についての一切の責任は持てませんので念のため

<日本推理作家協会編:ミステリー傑作選48『殺人の教室』(講談社文庫:2006)>所収の

緑川聖司『見えない悪意』


かりにもミステリーなので「一対一のオフでの話」という以外一切申しませんが、最後のひっくり返し方はさすがに想定外でした。
でもこれは十分ありえるよねぇ、と...

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2006.05.03

まだ広げますか(苦笑)

最近の新規入会者に、なのかどうかは存じませんが(まさかココログ未開設者全員に?)
A4サイズの封書ダイレクトメールが来ていたようです。


封入パンフの内容はほぼ下記特設ページに同じ。
春だから、はじめる。: @nifty
http://event.nifty.com/open2006/

なんか、いわゆるフォトログ前提ですか。
で、例示が「ペット」とか「旅行」とか「家族」とか・・・ちょ、ちょっと!!
リスクの注意喚起なしに<プライベート大公開>に誘導するのはいくらなんでも……
[これはひどい]タグつけまっせ(苦笑)

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2006.05.02

ニャンコはニャンコ

タイトルは1983年のヒット曲の一節。
ちなみに[NHK『おしん』放送][東京ディズニーランド開園]の年だそうな。

 


 

takoponsの意味 - 恐竜はもういない

――世の中には二種類のブロガーがいる。『書きたいもの、あるいは書かなければならないものがあってブロガーになった人』と『ブロガーになりたくてブロガーになった人』だ。
と言い換えてみよう。

 

果たして、「ブロガーになりたくてブロガーになった人」は、いるのだろうか?

 

政府推計で何百万と発表されるブログの、乱暴に見て半分くらいは「ブログなるものがしてみたくて作った」ものではないかと信じ込んでいるのですが違うのでしょうか(笑)。いや根拠は何もないのですが。
そしてそうやってデビューするが早いが怪しげなコメントやエロトラバの"歓迎"を受けてそれっきり……というのを予見するから「ブログしてみたい」なんて相談にはたっぷり脅しを効かせて「やめとけ」と言うのが正しいと思っているのですが違いましたか?

 

「ブロガーになってみたくてブロガーになりきれなかった人」は多いかもしれませんね。
雰囲気を味わってみたかった、というので、それで十分だと思ってはいるのですが。

 


 

例えば、アルファなんちゃらとか呼ばれる権威?が欲しくてブログを開設した人はいるか?

 

大きくなったらトラに、ライオンになるんだ!という夢を見る子猫もそれほど少なくはないような。

 

だって、話題になった件の本に書かれている「希望」を我が事のように読んで勇気付けられた人が少なくないんでしょう?

 

だけど大きくなっても・・・(ここでタイトルにつながる)。

 

……石は石、というのではあまりにキツいと思いましたもので。

 

 

不思議に思うのです。
なぜ自分に引きつけたときに「希望」と捉えられるのか。
読んで涙を流す人がいたとかいないとかどこかで読みましたが、泣くなら『"予選"に参加すれどもすれども99%は「石」としてよりわけられる』という「絶望」に対してではないのかと。

 

だから「参加することに意義がある」というかブログ「が」目的、で十分なんだろうと。

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