見られる、読まれる……伝わる?
カタカタとキーボード叩いて
カチカチとマウスで「公開」の状態にすれば
「伝わる」ものだと思っていた
そんな無邪気さが粉砕され、
読まれて、はおろか見られてすらいないことに気付き
何をどう書けばせめて見られるのかと立ちすくむまでに
数十エントリ、あるいは数十日が経っている。
いつのまにか目的が「伝えたい」から「見られたい」へと摩り替わってはいませんか?
「伝わる」などということが、遥か、夢のごとく遠い目標であることに気付いたなら、まずはともかく「見てもらう」ことに目的が"すりかわる"のはごくごく自然な流れでしょう。
そして書けども書けども玉石の石として淘汰されることに気付くのに
ごく稀に幸運にも恒常的なアクセスを集めることに成功するのに
百の単位のエントリを必要とし、
読まれてさえも意図が思うように伝わることなどほとんど無いと気付くのに
さらに百の単位のエントリを必要とする。
訓練というなら、(それぞれの段階での)絶望に向き合う訓練であるとも言えるかも知れません。
(上記引用元とは違いますが)どこかで虚無感を綴ったエントリが出てくるときがあります、それが始めて1年前後の心境、だったりします。
それらを読み、また自分の来し方を振り返れば、
書けなくなる(経験が書けなくする)というよりは、
書けていた昔が無邪気だった、ということなのだろうと、
そんな気がします。
それでも「読まれてナンボ」という想いに変わりはありませんが、
それは思うほど簡単に叶うようなものではないのですよ、と、せめてこれさえ伝われば幸いです。
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