でも、その「正常化の偏見」で社会が動いているような。
「安全意識」を持たせる、ということの困難さを改めて感じる話。
「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる「正常化の偏見」:ITpro
交通事故に遭って死亡する確率は,宝くじの1等に当選するより高い。にもかかわらず,会社からの帰りに車にはねられると考えている人はほとんどいない。一方で,宝くじには当選を期待して,多くの人々が人気の売り場に行列を作る。
そうですよねぇ、ということなんですけれども・・・
23ヶ月前に書いた「それでも常に警戒は怠りたくない・・・と書こうとして。」より再掲:
目的地の天候がどれだけ悪いという情報が入ろうと、自分の乗った飛行機は"当然、何事もなく"定刻に着くと信じて皆乗るのでは?
いわんや自分が"本当に"事故に遭うなど露ほども思っては乗るまい。事故の可能性を知識として知ってはいても。
実際、離陸前のエマージェンシー・デモなど文字通り上の空で皆さん新聞雑誌に没頭していらっしゃるわけでして。クルマの運転でも似たような感覚ではないかと想像してみるのですが。多少、免許の更新講習やら高速道路のSAやらで"衝撃写真"を見せられたくらいでは揺るがない"確信"があるのでは?
本題のネット上に流す/流してしまう情報についても同じことが言えるのでは、と。「利便性と危険性を秤にかけて」ということを(自分のこととして)考える人がどれだけ居るだろうかと。
でも、ねぇ・・・
皆が皆意識を持って、言い換えればびくびくしながら、であったなら、世の中のさまざまな「活動」というのがこれほど"元気"ではないでしょうね、とも。特に「文明生活度」が強ければ強いほど。
難しいですよね、と溜め息が出るだけで答えが出ない話……
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