すべてが娯楽になった世界に在りて君は何を想うのか
嘆きの心中お察ししますが、ちと本気/マジメ過ぎやしませんかと思うことその3、
及びFF11をやっている人にしかニヤリとできないタイトルで申し訳ないですその2。
ポケベル、携帯電話、パソコン、インターネット、そしてブログも・・・
何かをしようっていう原動力は、いつだって、初めは生存に関係していて、それから社会的なものへと移り、最後は純粋な楽しみになる。そして、楽しみの後にはもう何もない。
他のどんなものと同様に、進化は、ゆっくりとだが容赦なく、テクノロジーを生存のための地平から上昇させ、コミュニケーションに基礎を置いた社会性を通り抜けて、楽しみの領域へと入っていくだろう
生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。<リーナス・トーバルズ[Linux開発者]+デイビッド・ダイヤモンド・著/風見潤・訳/中島洋・監修: 『それがぼくには楽しかったから』:小学館プロダクション:2001年>より
もう、「娯楽の領域」に、到達してしまったんですよ。
実際、ぶっちゃけ分かる相手にしか語りたくない、余計な言葉は控えたいみたいなところでもあるし。
端的に言っちゃうと、要するに「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということなんじゃないかと。
敷居が下がるというのは、とりあえず入ってみよか、といった層が増えるということ。私のように(笑)。
もとより本気度やマジメさやシリアスさを求めても意味がありません。動機が「とりあえず」なのだから。
(念のため申し添えますが、あくまで画面に向かう態度がそうである、ということであり、人格の規定ではありませんので誤解なきよう)
『「とんがった人」同士が刺激を与え合う場』でなくなることは必定、
もう少し普及が緩やかなれば多少延命もできたろうにと思いますが文字通り「後の祭り」。
今から思えばはるかに「濃かった」パソコン通信でさえ成し得なかった『社会(問題)を動かす(改善する)』なんてことが、これだけ拡散し、かつ娯楽の場へと"進化"したネットで、ブログで、成し得ることなどあるものか。
積み上がりゆく事例から学ぶべきことより再掲:
圧倒的多数は「石」として淘汰され、
たとえ残ったとしても 討伐されるべき禍々しい光と判断された為であったりして、
幸い評価されてもエンターテイメントとしてものすごいスピードで消費されるこの世界に、構造問題を含んでいたり改善に長期を要したりするような、「真にシリアスな話」はそぐわない、ということではないでしょうか?誰が書くか、に関係なく。
もう、「娯楽の場」に相応しい話題と態度で臨むしかない。
誤読されるのもまた楽し、そういう余裕と猶予のある話題にしか向いていない世界、ということ。
いつのまにかそうなったのか、もとからそうだったのかはともかく。
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