瞬発力は「あるのが前提」、なのかも。
どこ経由であろうが、
何がきっかけであろうが、
結果として「話を続けることの出来るつながり」を得ることができるならば私としては満足なのですが。
(もう少し欲を言えばそういう「場を得る」ということであって相手が何人居ればいいということではないし、メールのような非公開/一対一ではないほうがいいけど)
それを前提にして、それでも。
シナトラ千代子 - 消費されるブロガーは消耗する、つまり短命になる。:
「あんま瞬発力みたいなのは鍛えずに、じっくりエントリを煮こむような方向で書くほうがお互いにとっていいんじゃないの?」
そうありたいと切に願います。
ですが、まず瞬発力を鍛えないことには……
アクセス数やブックマーク数に一喜一憂するのは馬鹿げている、というのをよく目にします。
確かに馬鹿げているかもしれません。
それはゴールではないのだから、やっとスタートラインに立つことができたというだけで。
「アクセスがあった」というのは「見た」という数を示すにすぎませんが。
ですが、これは何度も書いていますが、見られもしないものが読まれることはないわけで。
「消費される」なんて嘆きますが、「消費を実感できるほどに流通した」というだけでも実は大したもの、圧倒的多数はそこにもたどり着けず淘汰される中で。
それはともかく、そのスタートラインに立てるかどうかは、公開して数時間の内にどこかのソーシャルブックマークに(複数人によって)クリップされるかどうかでほぼ決まってしまうのではないかと、経験的に見て。
たとえていえば、玉は最初から光っているもので、何ヶ月か経ってから輝き始める、などということはまずありえない。(外的要因による例外もあるでしょうが)
……話が続くかすぐ消えるか、その後のこともいろいろあるけれど、すべてはスタートラインに立つことができてから。
瞬発力と持続力というのは相反するものではなくて、まずスタートラインに立てるだけの瞬発力を持つことがその後のすべての前提なのかも、という、厳しい、あまりにも厳しい話。
鍛えて鍛えて、たどり着いた先にやっと見えたものは、果たして.....
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