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2006.11.27

ふりだしに戻る。

本当は、何度も書くなら、継続的改善というか、その度に伝えたいことがより伝わる結果になっていれば、と思います──JIS Q 9001/14001(ISO 9001/14001)の規格書に出てくる"スパイラルアップ"の図のごとく。

304 Not Modified: 書くと、書きたいものがわかってくる

何度も書いているうちに、
納得できる記事を書き上げることができるかもしれない。


何度も書いているうちに、
その意見は非常に強いものとなる。

繰り返し繰り返し、同じことを書いてきました。
「前よりも伝わった」という実感は、稀かもしれません。

ブログ界-まぁ、私が見て回っている範囲ですが-で同じ話が繰り返される、というか蒸し返されることの縮小コピーのごとく、毎回"ふりだしに戻る"ことを繰り返しているだけかもしれません。


ポジティブに考えれば、それでも前とは違った人から違った反応が得られるなら、それで充分なのかもしれません。
そしてそもそも、いつでも向上を目指す必要などどこにもなくて、むしろどこかで「足るを知る」べきなのかもしれません。


ただ、継続的に見ていただいている方が居られたとして、
また同じこと書いてるワ、なんて、
飽きられて/呆れられていないか、
それだけが、少し気がかりです。


関連:
すべてのブログエントリは試作品である。(2005.08)
ブログ=繰り言2.0(『リフレインで叫んでる』改題)(2006.07)

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2006.11.22

ブログ--いまさらながら、この不思議な世界。

ブログでなにかを書いたとて、それ自体ほとんど居酒屋談義の域を出ることがないというのに。

あら不思議。
なんですか、字面通りの"居酒屋談義"を文字に起こしたら炎上したココログがあったんですか。

まぁ該事例はコンサルタントさんだそうですし、数ヶ月前に"さるかしこきあたり"に触れて大炎上した(ってこれもココログやん・・・)スポーツライターさんなどと同じく、『業として、あるいはその補助として』のブログであるようですので、純粋に余暇の一部としてやっている私たちよりは、慎重さを欠いたことにおいて責められる部分があったのだろうとは思いますが、

ネットに真面目に向かい過ぎているのか何なのか、"政治的に正しくない"発言にわーっと噛みついたり、あるいは"ある社会問題"についてのそれぞれの一家言がわーっと出たあとで、お前ら寄ってたかって高みから見下ろしたどっかの社説みたいなことばっか言いやがって、とか何とか怒りのエントリをあげる人が必ずといっていいほど出てきたり、書いた側は書いた側でシリアスさが届かない虚しさを嘆いてみたりする現象は、一見自然な流れに見えますが、不思議な面もあるのではないかと。


だって、ネットの書き込みなんて、
居酒屋談義、ほかにも床屋政談なんて言葉もありますが、ともあれほんの数年前まではそんな場所やあるいは給湯室で、休憩(喫煙)室で、もっと昔には井戸端で、音声会話でのみ行われていた(あ、手話もあるだろうけどね)世間話が、この時代になって文字としても行われるようになった、ただその違いでしかないだろうと思うのですよ。

(会話の)世間話で"けしからん"とかいう憤りとともになにか理想論をぶち上げたとして、そこに口だけか云々と全力で突っ込むような野暮はたぶんありえないと思うのですが、ブログだと結構それがありえるのは、妙といえば妙ですよね。

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2006.11.17

「マジメスギ」と「フザケスギ」

suVeneのあれ: リアルとかけ離れた議論を読んで、いやだからこの世界はすべてがエンターテイメント扱いされ消費されるんだと何度言えば(略)ということを考えていて、こんなタイトルを思いついた。

絵本を想定して。

……ストーリーが出てこないのですが(苦笑)。
それ以前に"絵"方面なんてまるっきりダメなんですが。


マジメスギは、

とくに政治・経済・社会問題方面のシリアスな問題を、書くことで世間もしくは行政・立法を必ず動かせるのだと信じるがゆえ、虚無感に潰れる一歩手前くらいのひとたち、とか、
やれネットが、ブログが、ソーシャルブックマークが、ノイズが増えた、衆愚化したと嘆くひとたち、とか。

フザケスギは、

とくにSNSの中などで、今最もホットな道交法違反をはじめ、違法行為を(多くは自慢げに)記すひとたち、とか。

そんなのがやたら林立してどうのこうの。
そんな話で。


なんか童話ムードで書けたらなぁと思いつつ。

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2006.11.16

著作権(の主張)についての昔話

いい悪いの判断は私には分かりません。単なる思い出話として。

いづれにせよ<ネット内>でのことですが。

今はわりと、著作権者や団体が著作権がある何かの無許可/無償利用を禁止/制限しようとするとものすごく叩かれる、というか一方的に反発を食らう傾向にあるように見えます。(よね?)

ですが、ほんの8~9年ほど前、まだパソコン通信華やかかりし頃、フォーラム(今回からフォーラムというリンクは外します-もう残り半年ありませんので-)では、場によって違いはあったものの、(アクティブな)人たちの中には比較的著作権者の主張に対して好意的である方々もある程度の割合で居られたように記憶しています。

当時、理由として、オンラインソフト作家の方々も多数コミュニティに居られるから、というようなことをどこかで読んだように覚えています。


あの頃とは比べ物にならないくらいネット人口が増えて、(プログラム等を"ただ使うだけ"という意味で)純粋に「消費者」である割合が圧倒的になって、そしてソフトウェアのほうもオープンソース(の考え)がすごく成長してきて、・・・という変化があるからなのでしょうけど、あの頃からの作家さんたちはどう思ってらっしゃるのかなぁ、なんとことを、ふと。


繰り返しますがどちらがいい悪いの話をしたいのではありません。
ふと振り返るとずいぶん変わったもんだなぁ、という感慨があったので書いてみた、それだけです。

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2006.11.13

目立たぬように、

はしゃがぬように。
…「時代おくれ」と言われても、ね。

#まさかこれで非許諾とか言わないよね>JASRAC


304 Not Modified: 普通って何だろうを読んで。

普通が分からない。
普通って、何だろう。

「ブログしてる」時点で私たちはすでに外・・・
ましてや累計3000以上もブクマされてる貴殿に分かるはずが・・・ごめんなさい羨ましいですごめんなさい。


普通イコール"何もない"こと、ではないでしょうが、
個別の、あるいはあらゆる状況において、"どこかのナニモノか"ではないこと、だと思っています。
見上げられることも、
妬まれることも、
見下され蔑まれることもない状態。

いっこ前の「いじめ」の話でも書いたのですが、
「目立たないこと」に尽きるのではないでしょうか。プラスにもマイナスにも。

中央値±標準偏差(3や6ではない、1σ)ぐらいのイメージ。

望んでなれる状態ではないかもしれません。
というか、下手に望むから却ってなれないのかもしれませんが。

確かに"退屈で空虚"かもしれなくても、いまの時代、『「普通」でい続けられること』というのは、最高に難しくかつ贅沢なことのような気もします。

昔書いたこと。
「みんな」と「ふつう」の中で(2005.10)
「終わりなき日常を!」という強欲(2005.12)

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2006.11.11

「悪いのは奴らだ」

いじめ、について少し。

いじめられてました。
が、皆勤賞でした。
……という程度ではいじめられた内に入りませんかそうですか。

登校拒否とか転校とか、そんな選択肢を考えなかったのは、自分に「学校を(物理的な怪我病気以外で)休む」という発想そのものが微塵も存在しなかったことが第一ですが、「悪いのは奴らだ」と頑なに信じていたから、「転校すべきは奴らだ」と思っていたから。

#一度そういうことを言って、学年主任に「つけあがるな」とドスのきいた声ですごまれたことをいまだに覚えていますけど。前後の脈絡も忘れたし、別に傷とか怨みとかでもなくて、ただ覚えている、というだけ。


当時は単純に「悪いのは奴らだ」と思っていただけの理由ですが、理詰めで考えても、当然公言はしないにせよ"いじめられて"転校するなんてことは、即ち「光り輝くフラグを背負って別の地獄へ逝く」がごときものでしょう、ただでさえ「転校生いじめ」という言葉があるほど広く存在するというのに。

そしてなにより、
なぜ、正しい(と言えるかどうかは相当疑義があるかもしれませんが、ともかく「非は全くない」という公式見解が確立している)側が逃げたり動いたりしなきゃならんのでしょうか?

いじめられている側を"いますぐ"逃がすことのほうが常に優先されるかもしれませんし、現実には難しい話でしょうが・・・
『「いじめ」はいじめた側が100%悪い』という公式見解が完全に確立してから、もうずいぶん経つはずです。
ならば、移動する(される)べきは、「悪い側」ではないのでしょうか?


ブログ界隈を、またそこに引用されるコラム類を眺めていても、そういう方面の話が引っかかってこないことに、釈然としない思いがあります。

まぁ、多かれ少なかれいじめられた経験を持つと「+であれ-であれ、とにかく目立つことは即ち悪である」という思想になるはずなので、こうして「ブログする」ような時点で、ましてや同調意見ではないことを書いて、さらには普段から「読まれたい」とか思っている私など、やはり話の資格外かもしれませんが。

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2006.11.09

Peace?

言及候補のサイトを開いたまま
書くか止めるかいつも悶々として。

決意してメモ帳を起動してからも
あれこれ迷ってブラウザ画面といったりきたり。

止めたときには意見を出さなかったことを悔やむけれども、
書いたときには思ったような反応もアクセスも来ないもので、
たまにはお叱りを受けたりもして。

「やってもーた...」という心の凹みを
「まぁ、そんなこともあらぁな」と脳内で励ましても、
凹みを埋めるには到底足りない。

ただそんな日々の繰り返し。


『書いたからには「読まれてナンボ」』
これからもその想いを変えることはないけれど、
身の丈に合ったこの"平和な"営みも、
捨てたものではないかもしれない。

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2006.11.02

高みを目指してどこいくの

常に読んでもらえて、しかも高頻度で何かを思ってもらえる「常連さん」を、ましてや目に見えるかたちで得られるなんて、充分過ぎるほどの『結果』だと思うんだけどなぁ……

あんたジャージでどこ行くの (Lsty): はてなBMからのアクセスが増えるということ

数ヶ月単位でアクセス解析を見て、はてなブックマークからのアクセスが他所からのものに比べて多くなっている場合、それは「自分の書く記事のレベルが上がった」せいではなくて「はてなブックマークという空間で常連になった」せいだ。例外はあるだろうけど、多くの場合、そうだと思う。
 そういう傾向は、ブロガーにとって危険なのではないかと思った。

じゃぁ「b.hatena.ne.jp」以外からなら問題ないのですね!・・・えー、ヨタはともかく、はてな云々は代名詞として扱っているだけ、ということを前提に進めますが。


高頻度で注目されるようになるというのは、つまり高頻度でブックマークしてくれる「常連さんを得た」ということとほぼ同義でしょう(毎回ぜんぜん違う顔ぶれにブックマークされるなんてことはまず無いでしょうから(それはそれですごいと思いますが))。

更新すれば高頻度で(見て、ではなく)読まれて、それぞれに何か思うところあってブックマークしてくれる。
皆が皆共感ばかりであるはずは無いにせよ、書き続けたことで、なんというか"気が合う"読み手を得られた、ということ。
記事のレベルがあるとしたら、そういうレベルに「達した」ということではないでしょうか。

危険、というのや、引用部の後に続く『面白い結果』ということの示すものが分かっていないのですが、直接のやり取りでは無いにせよ、「気の合う相手とコミュニケーションが取れる」というのは、「ブログする」ということのひとつのゴールだと言えるのではないかと思うのです。これが余暇の一部分である限りは、ですが。

「注目」に乗ればアクセスが来ます、そのなかの何パーミルか(パーセントではないことに注意)位は新しい常連さんになるかもしれない。また今の常連さんがいつまでも居てくれるとは限らない、その流転も込みで。

余暇であることを忘れて、なのか、余暇だからこそ、なのかはともかく、目指す高みには果てしないものがあるのだろうとは思いますが、そんな(常連になるという)レベルでさえはるか雲上に見える私からすれば、それ以上のどこを目指してどうするの、という...まぁ、僻み含みで(笑)。

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