光と、闇と、「その他大勢」
『匿「顔」性』というフレーズが出てきて思わずニヤリ。
前世紀から使って来た言葉がやっとメジャーデビューしたかと微妙に先発明権を主張しておく……というのは冗談ですが。
『ウェブ人間論』、読みました。
話題になった梅田さんの前著(『ウェブ進化論』(以下同じ))のときはあえて<件の本>と表現したのですが、
(ちなみに→ニャンコはニャンコ(2006.05)、およびそれ以降のいくつか)
(今確認したらリンク先の筑摩のページ消えてら・・・)
今回はちゃんと書名を出して感想などを。
パソコンを保有してネットにつないでからあと数日で丸10年になりますが、時が経つほどに平野さんの視点に近づいてきた、そう思います。
特に「話題のパワーの行く先」(p.86-87,187)やネガティブな評判に接したときの感情(2章全般)、そして人脈のリンクの序列が『人間観そのものにまで拡張されること』への危惧(p.57)だとかいう辺り。
逆に3章全体では梅田さんの説になるほどと思える部分が多かったし、2章の『ネットの魅力の感じ方って、リアルな空間での自分の恵まれ度に反比例すると思うんですよ。』(p.70)というのは、もう図星すぎて・・・(泣
ただ、全体的に、ひとつひとつの話題が平野さんの出した疑念を梅田さんが楽観論で"軽くかわした"ところで打ち切られている、ように見えてしまったのがなんとも。特に2章の話などは自分が一番興味があるところでもあるし、平野さんの視点と梅田さんの視点の違いが際立っていた部分だと思うので、そこで違いをぶつけ合って終わっているような感じを受けたのが物足りなかったかなと。
計16時間もの対談ということですので、実際はそこで終わっていないのでしょうし、だとしたらそこで切っているのはなにかを意図してのものなのでしょうけれども。
加えて、どうも話がかみ合っていないような印象もあったことについて。
思ったのは、お二方の見ている(気にしている)世界が実は全然違うのではないか、ということ。
梅田さんは"玉石混淆の玉の方"ということを前著から言い続けています。
手元に前著が無いのでうろ覚えですが、前は"大学の五百人くらいの大教室で面白い(ことを書く)五人"というような表現で上位1%あたりのことを、また今回は『十人に一人くらいの層』という表現で。
まぁ1%と1割ではえらい違いかもしれないですが、ともかくその程度に『ハイエンドで読むに値する』レベル(の集合体)というのが大前提に有るのではないか、と読めたのです。残りの(石として淘汰された)90~99%というのはまさに視界の外、即ち「存在しないのと一緒」。
翻って平野さんはその残りの有象無象も含めて、というよりむしろそちら側のことを重きにおいている、そんなふうに思えたので。
だとしたらそりゃぁすれ違った話になるはずだし、そして私が平野さんの方により共感できるはずだわ、と(苦笑)。
そして、ひとつ前著から感じていたことを再確認できた、というか確信が持てたこと。
梅田さんが語るような「"さわやかな刺激とオプティミズム"に彩られた希望の未来図」は、そういった上位1%だか1割だかの光る「玉」(と、その光の強さゆえにダークサイドに堕ちた者)のみに関わりのある話でしかないのだ、ということ。
著書や著者の批判ではないので念のため。そういう層を見てそういう希望を発信する、という生業にケチをつける意図では断じてないので。
前著を我が事のように読んで勇気づけられたとか感動したとか、そういう受信側の90~99%にとってあの本の世界は決して「我が事」などではないのだ(まぁ、稀に多少の恩恵に浴する可能性はあるかもしれないけど)、ということ。
わたしたち「その他大勢」にとっては、そのそれぞれのささやかな営みがたいした変わりばえもなく続くことがすべて。
願わくばさらっとした『犠牲者が出ますよね。』の一言のもとに斃れるようなことがありませんように、
そしてささやかな楽しみがネガティブな刺激を多少なりとも上回れますように。
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