興味(の有無)の衝突
こういうのもいわゆる「文化圏の衝突」のひとつ、即ち、モメゴトの芽、になりえるんじゃないかなぁ、と思うことがあります。
ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは
「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。
何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。
プロフィールを知りたい、あるいは(書いたものを)自分のプロフィールを知った上で読んで欲しい、という考え方と、
そんなものは知りたくも知られたくも無い、という考え方と。
実名/顕名/匿名 の論争というか衝突、つまり実名と所属を明らかにしない者とまともな話が出来るかどうか、というのとは、似ているようで違う次元。
「ブログする」という中では経験はないのですが、ネットゲームその他で、数度のやりとりで"つながりが確立した"わりと早い時期から居住地とか年齢とかを聞かれる、という経験は何度かあります。あるいはそこそこのコミュニティが出来ると「オフるものだ」と思っている、とか(パソコン通信の昔には自然な流れでしたが)。
それを非難はしないしできないですよ、悪意や下心ではないことは分かりますし。
ですが、年齢性別学歴職歴その他一切合切の『リアルでの「属性」(のしがらみ)からの自由』こそがネットワークコミュニケーション最大の意義であり価値だと思っている私からすれば、「いや、それを知ったらぶちこわしじゃないですか」、という気持ちがどうしても先に出てくるわけで。
そのつながりはつながりとして続けたいから「冷たく拒絶して終わり」にはしたくないし、さりとて現実の属性とリンクさせたくはないし...と、どうやってやんわりと切り返そうか困ったことは何度もあります。
……知った・知られたからといって何かが"ぶちこわしになった"経験は無いのですが、年賀状のやり取りもオフ経験さえあるにもかかわらず。
でも、できるかぎりリアルと切り離した「画面に映るキャラクターとして」のみのおつきあいでありたい、という思い。
こういう「書き手の属性への興味」辺りの価値観でいきちがいが起こることもあるのではないか、というハナシ。
関連:
ただ、画面に映る文字のみで。(2004.04)
白紙のプロフィール-唯一、読み手に強制できること (2006.01)
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