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2007.01.31

It's simple

そういえば某テレビ番組や某食品加工会社や某大臣に対するアレコレを、
(こういう書き方をすると、たぶん半年も経てば世間はもちろん本人さえも何のことか思い出せないはずですが、あえて)
なぜか「炎上」とはみなさん表現なさらないようで、かつネットでの"炎上"現象と並べて考察される話もあまり見かけないですが、なぜでしょうね。

やってる(やられてる)ことに何らの違いもないのに。


個別の話に対してはいろいろと解説がなされているようですが、小難しい理屈なんて実はどこにもなくて、

『なぜ叩くのか?』
『そこに失言があるから』

という至極シンプルな話でしかないのでしょう。
ネットだろうと、一般世間だろうと、政治だろうと。

というか、一般世間での慣習(?)がそのままネットにも流れ込んできた、というのが実情なんでしょうね。
「日本の」伝統、なのか、亜州標準(Asian standard)なのかは存じませんが、"あんぐろさくそん"にはないとして。


なんで(ネットの炎上と)同列に並べる議論を見ないのかなぁとふと思った、という以上のエントリではありませんが。
とにもかくにもどこであってもそれを前提で"survive"するよりほかにないんだろうな、と。






関連:大して変わりばえのないもう一つの世界(2006.04)

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2007.01.28

散り際に希望をつないで

いよいよ下り局面なのでしょうか。

304 Not Modified: ブログへの新規参入がなくなるとき

ほとんどの人の頭の中に自分自身のブログマップができあがってしまったら、それこそ新規参入が厳しくなってしまうのではないだろうか。

拡大期であっても更新停止はやまほどありますから、縮小局面でなら尚更、巡回先マップからぽろぽろと欠落してゆく相手は増えるでしょう。
となると、そこに入り込めるチャンスは却って広がるかもしれません。


ブログの衰退が「次の何か新しいネットサービスに移ってしまう為」だとしたら当然「世間からの(新たな)関心」は期待できないでしょうけれど、「ここ(=ブログ)にしがみつこうとする」人だって居ないわけではありますまい。
ならば、総数が(大きく)減ることによって、残った人たちにはいまよりも高い確率で読んでもらえて、いまよりも濃いコミュニケーションが成り立ちうるのではないかと。

幾度か皮肉たっぷりで「ブログなるものがいつまで続くと思っているんだ」と書いてきましたが、実はそんなささやかな希望を持っていたりもします。

せめて散り際の短い間でも。

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2007.01.24

いがみ合い

304 Not Modified: Google のライバルは Yahoo! ではなかったを読んでいわゆる"脊髄反射"で感じたこと。
本論とは違うのでトラックバックせずに。



マスコミはネットに対して Win-Lose の戦略を取っているように思えるところがある。要するに、自分が勝つためには相手が負けなければならないと考えているのではないだろうか、と。

マスコミはネットのイメージを下げようとしているのではないか。

これ、主客反転させても成り立ちますよね?
ネット界で「マスミ」という表現は珍しくないですし。

まぁ、ネットサービス業者がそう思っているということではない(と思う)ので、正確には『ネットユーザーはマスコミに~』ということですけれども。


一方向じゃない、いがみ合い。お互い様。

関連:大して変わりばえのないもう一つの世界(2006.04)


不幸といえば不幸ですが……
とりあえず「いつかお互いの良さを補完しあって」などというのはまさに道徳の教科書であって現実には絶対ありえないので、部分的に歩み寄りもしくは利用できるところは利用しつつも基本的には対立関係が続くのかなと思います。
マスコミ=お上、といいきれないかもしれませんが、
「お上」vs「下々の民」の構図に持っていかれると(この国では)こっち側に勝ち目は無けれど、さりとて完全制圧も無理そうですし。

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2007.01.18

「仕事のネット」と「趣味のネット」

前稿の続き、のようなもの。


何度か書いた表現ですが、
「業として、または業の補助として、あるいは職を得るために」ネットで表現している人たち。
切磋琢磨、とか、キャリアアップ、とか、そういう目的。
現実社会の自分、何らかの(仕事の)肩書との関連で"ネットしている"人たち。

片や、
「あくまで趣味の範疇、余暇の一部分としての」ネット、である人たち。
どちらかというと現実社会の自分(の、少なくとも生業)とは切り離して"ネットしている"人たち。


放っておいても二極化するような気がしなくもない(のは希望的観測)ですが、

いっそのこと、積極的に分離してしまえばどうでしょうか?

『仕事ネット』と『趣味ネット』。
コミュニケーションが取れるのは、それぞれの属する世界でのみ。
何かと参考になることがあるかもしれないから、相互に見ることぐらいはできてもいいけれど、あくまでリードオンリー、コミュニケーション不可。
引用や言及は……規制のしようがないけれど、「しない約束」。
そんなイメージ。


・・・なんてのはもちろん現実的ではないけれど、
『仕事モード』でのブログなり何なりに対して、そのモチベーションを大きく損ねるような茶々を入れられたりするのはひどく不幸(だけでなくコトによっては営業妨害)だろうし、
気楽な『趣味モード』でのブログなり何なりに対して、熱意を問うたりリスクを恐れるななどと言ったりしても応えようがないだろうし。いや気楽かつ安全第一で居させてくださいよ、というしか。

ようは、同じ世界の住人と考えてはならない、ということ。


まぁ、立ち位置を明確にして、お互い不可侵というぐらいの心がけでいた方が何かと幸せなんじゃないですか?と。

私?断然後者ですよ。
だからせめてそのささやかな(以下繰り言により略

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2007.01.17

ネットに熱気があるかぎり

燃焼の3要素:可燃物・酸素・熱源。
いづれかが欠けては燃焼は継続し得ない。

ネットにおける炎上の3要素:ターゲット・場の空気・熱気。
"痛い"書き込みがあっても、その"痛さ"を嗤う空気があっても、
その熱気が臨界に達しなければ炎上し得ない。
逆にいえば熱気が更なる熱気を呼び寄せるのだろう。

炎上ではなく、ターゲットへの[これはすごい]というポジティブな感動であっても同じこと。
"熱気の集積"がなければ話題にはなり得ない。

で、
2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13あたりを読んで思ったのだけれども、

"集積した意志の熱気"が善意か悪意か、と結果としての毀誉褒貶に相関が無いとするのであれば、
ネットに熱気があるかぎり、炎上のような不幸は防ぎ得ないのだろうと思う。

不幸を防ごうとするなら、
あらゆる熱気を醒めさせなければ。
およそすべてのモチベーションに冷や水を
過ぎた善意は暴走を招き、
過ぎた期待は失望を生むのだから。

……無理、でしょうね。


危険を喧伝して進歩の芽をつぶすとは、などと「前向きな方々」は嘆息されますが、"ささやかな営み"が続くことが全て、であるようなわたしたちにしてみれば、『進歩には犠牲が伴う』などという"俯瞰からの視点"のもとに犠牲になるなど御免こうむりたいのですが。

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2007.01.12

my turn, your turn - 不平等でミスマッチで運任せの世界で

もちろん個性の実力というのもあると思いますけれど。

『斬(ざん)』 時に自分の記事が必要以上に話題にされるのは恥ずかしいことなのかもしれない

ブログはやはり生モノ。たとえ、いつ読んでも素晴らしい記事だとしても、生まれたての旬な時期というものがあるはずです。その時期を逸して、注目されずにいるという不幸、不運。そして、その代わりとまではいかないけれど、注目を集めてしまったオレの記事。


(中略)

 本当の一番は別にいる(いた)のに、自分が間違って一番になってしまったような罪悪感を感じることって、ないのだろうか?

この弱肉強食の世界でそのやさしさは、自殺行為に等しいかもしれなかったり……

とはいえ、書き上げた(公開した)ときの自己評価と結果としての注目度は反比例まではいかなくともミスマッチがほとんどゆえに、軽い気持ちで書いた文章が予想外に注目されたときなどはそういう申し訳なさを感じることもあったりします。

ただ・・・
その「彼我の注目度の差」って、その裏返しの感情もあったりしません?(^^;
同じ時期に(またはちょっと前に)こっちも似たようなこと書いてるやん、なのにあっちだけ注目されてなんでやねん、という方向の、自己評価と結果のミスマッチ。


アクセスというのは結果や目的などではなくて読まれるためのスタートライン、との思いゆえに、選別淘汰によってそのスタートラインにも立てない(ことが圧倒的多数である)という「機会の不平等」を常々うらめしく思っているわけですけれども、その一記事・一回単位の注目度の差も、あえて上で書いたような表裏一体のものとして全体で考えてみると、(絶対に均等では有り得ないにしても)割と"運による采配"でのバランスというのはとれているかもしれません。今回は私の番(my turn)、つぎはあなた(=自分以外のだれか)の番(your turn)、というように。
まぁ、たいていは瞬間風速であってスタートラインにはまだ遠かったりするのですが。


souryuusei0401さん(えっと、数字つけた方がいいのでしたっけ)は運ではないと仰いますが、自分の番が来るかどうかというのは運でしかないと思います。
『斬(ざん)』 羞 恥 プ レ イ とは上手に付き合っていきたいものですね

ポジションとか立ち居地みたいなものが左右されるでしょ。大手(中堅)個人ニュースサイターやアルファクリッパーなんて呼ばれてる人達の巡回先に居るか居ないかでも変わってくるわけで

その巡回先に入るか否かイコール(入る時点での)運、ではないでしょうか。


「自分の番」が来る前に寿命が尽きてしまうブログのほうがきっと多いのだと思いますし、
最初に書いたように、ときに申し訳なさを感じることもあります。
とはいえ、たかが瞬間風速の後で何をしてあげることができるのでしょう?

決定的に不平等でいつもミスマッチだらけで
書きたいことを書きたいように書いて注目されるかどうかは運任せでしかない世界で、
「自分の番が来た」ことを素直に喜べばいいのではないですか、
ほかにできることなどないのだから。

関連:
問題の根本にある皮肉(2005.11)
それは時間と知恵を賭けたギャンブルに似て(2006.04)

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2007.01.08

NOT Jonathan, but Jedi -『光と、影と、「その他大勢」』追補

昨年末に『光と、影と、「その他大勢」』(以下前稿)を書いた後で、やっと『ウェブ進化論』を手元に取り戻して。
この本が好意的に売れた、という表現はヘンですが、結構多くの人が内容を自分のこととして考えても希望が持てたらしい(何度か書いていますがわたしには絶望としてしか読めなかった)、というのは何故かなぁ、ということを、もう一度考えるために読み返してみました。


で、もしかしたら、と思いついたことを前稿の追補として。



表紙カバーにさえ『不特定多数無限大の良質な部分』という抜き書きがあるように、「玉石混交の玉」が大前提の話のはずであるにもかかわらず、なのですが(但しうしろ1/3くらいには玉石の話は出て来ないのがミソかも)……

梅田さん(の"熱くてオプティミズムに彩られた"語り口)に、
自らは純白に輝いていながらも「学ぼうという意志をもって『練習にほんのわずかの時間を費しさえすれば自分の力で』わたしと同じように飛べるのだ」と説く、『かもめのジョナサン』の主人公、ジョナサン・リヴィングストンの幻影を見たのかもしれない、と。

……もちろんそれは玉石の選別というのが前提である以上幻影でしかないのですが、『ウェブ人間論』にあった[スター・ウォーズの世界観]という例えになぞらえて言えば、あれは「ジェダイ・マスターが現在and/or未来のジェダイに語りかけた」ものであって、辺境の酒屋でまったりしている(そして時にはクダを巻いている)がごとき大多数のわたしたち"フォースを持たぬ者"にとっては少なくとも「我が事」ではない


ということで結論は前稿に同じ。

願わくばさらっとした『犠牲者が出ますよね。』の一言のもとに斃れるようなことがありませんように、

ここだけ再掲。
そういえば『スター・ウォーズ』というと、エピソードIVだったかで惑星ごとデス・スターに消されるシーンがあったように記憶していますが。

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2007.01.05

興味(の有無)の衝突

こういうのもいわゆる「文化圏の衝突」のひとつ、即ち、モメゴトの芽、になりえるんじゃないかなぁ、と思うことがあります。

suVeneのあれ: 文章から人格を読む人・読まない人

 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは
「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。
何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。

プロフィールを知りたい、あるいは(書いたものを)自分のプロフィールを知った上で読んで欲しい、という考え方と、
そんなものは知りたくも知られたくも無い、という考え方と。

実名/顕名/匿名 の論争というか衝突、つまり実名と所属を明らかにしない者とまともな話が出来るかどうか、というのとは、似ているようで違う次元。

「ブログする」という中では経験はないのですが、ネットゲームその他で、数度のやりとりで"つながりが確立した"わりと早い時期から居住地とか年齢とかを聞かれる、という経験は何度かあります。あるいはそこそこのコミュニティが出来ると「オフるものだ」と思っている、とか(パソコン通信の昔には自然な流れでしたが)。

それを非難はしないしできないですよ、悪意や下心ではないことは分かりますし。
ですが、年齢性別学歴職歴その他一切合切の『リアルでの「属性」(のしがらみ)からの自由』こそがネットワークコミュニケーション最大の意義であり価値だと思っている私からすれば、「いや、それを知ったらぶちこわしじゃないですか」、という気持ちがどうしても先に出てくるわけで。
そのつながりはつながりとして続けたいから「冷たく拒絶して終わり」にはしたくないし、さりとて現実の属性とリンクさせたくはないし...と、どうやってやんわりと切り返そうか困ったことは何度もあります。

……知った・知られたからといって何かが"ぶちこわしになった"経験は無いのですが、年賀状のやり取りもオフ経験さえあるにもかかわらず。
でも、できるかぎりリアルと切り離した「画面に映るキャラクターとして」のみのおつきあいでありたい、という思い。

こういう「書き手の属性への興味」辺りの価値観でいきちがいが起こることもあるのではないか、というハナシ。

関連:
ただ、画面に映る文字のみで。(2004.04)
白紙のプロフィール-唯一、読み手に強制できること (2006.01)

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