君も社説子 我も社説子
ああブログ 正論の文字列 火の色す
君も社説子 我も社説子
音読するところを想像しただけで舌を噛みそうにさせてしまってすみません。
……えーっと、パロディ元はお分かりになりますね。
ネコプロトコル - ネットは、キレイになるようにできている。:
ネットのギロンを見てますと、すごくかっこよくてキレイな正論を言う方というのがいてまして
世の中─とくに社会問題や政治行政方面の─に対してなにか一言申そうとすると、どうしても新聞の社説のごとき(といっても口調の硬軟は千差万別ですが)"天下の正論"のような論調になりがちではあるのかもしれません。
それぞれによる、それぞれなりの「社説」。
……というのが今回の舌を噛みそうなタイトルの由来。
あ、もちろん、どこ(の論旨)が「本当に」正しいのか、というのはここでは問題外ですよ。
せっぱつまってきて「正論だけど、そんなことリアルでも言えるんかよ!」と捨てゼリフを言えるでしょう。 居酒屋談義、という言葉に代表させますが、くだけた場で交わす世間話にはそういう成分が昔からそれなりにあったでしょうし。
で、会話と違って記録に残る「キレイな」文字列があふれていったとして・・・
そんでキレイなネットに接続しているうちにどのユーザの脳もだんだんとキレイ側に飲み込まれ、非ネット時にも周囲にキレイが漏れ出ていっていつしか人類全体がキレイになってしまうのじゃないかしら。
「キレイゴト」は実現可能性がない(考えない)から「キレイゴト」ではないのでしょうか(苦笑)。
だいたい、居酒屋談義は勿論のこと社説でさえ、それに対して実現可能性や発言責任が本気で問われることなんてないですよね?
ならばわたしたち一般ピープルのブログエントリを、読み手が実現可能性や発言責任を(本気で)考えることの有り得なさが分かると思うのです。
ですから、その点において新聞の社説と「ネットのギロン」と居酒屋談義に本質的な差はないと思うのです。
ということを念頭に置いて居酒屋談義と大差ないのに「炎上」したりするのはある意味不思議だと思っているのですが(どうもそうは読まれなかったようですが)。
つまり言いたいのは、というか、ここ数ヶ月のベースにしてきたつもりなのですが、
(今を思えば遥かに『濃かった』昔でさえ成し得なかった)「従前のリアルでは変えられなかった"世の中"をネットで変える」などということが(人は増えたとはいえその分独自性が薄まった今の、これからのネットで)起こることがあるものか、ということ。
ネットそのものについて、あるいはある種の文化芸能方面、そして一部の消費活動方面など、『ネットの影響力』がかなりの部分を占める分野というのも当然あるわけでして、だから「ネットのギロン」なんてものはそちらに特化していけばいいのに、と思うことがあります。
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