続・「個性の実力」─測れないけど、なにかがちがう。
Kazuhiro's Weblog: ブログのアクセス数を増やすために試したい15の方法というエントリに対して、
ブログのアクセス数を増やす15の方法への反論という「そんな増やし方はどうかと思うよ」というエントリがあって、
また北の大地から送る物欲日記 - ブログのアクセスがどう増えたか振り返ってみてでは
アクセス数にこだわりすぎないで気楽に書いてると、そのうちアクセスがついてくるんじゃないかと。
という経験談が語られたりして。
それらと、「最初の半年から見れば一旦は倍増以上になるもその後安定からやや漸減傾向」である自分の平均アクセス推移を重ね合わせてみた上で、
Lifestyle Innovation for Bloggers 思考の翼をひろげて。 - アルファブロガー批判。の終段:
ぼくはブログに書かれた文章は、アルファだろうがなかろうが、すべて尊いと思っています。フラットであるべきではないのか。
へ反応。
(結果からすれば)それは幻想ですよ、と。
いや、私もできるかぎりフラットであってほしいと思うのですよ、
なにせ「『護送船団・結果平等』大好き人間」ですから。
ですが。
ただ自由に書いているうちに自然とアクセス(および反応)が右肩上がりになるブログがある一方で、
さまざまな手段を講じた奮闘努力の甲斐も無く(ウザがられこそすれ)読まれないままのブログがある。
似たような話題を取り上げていてさえも。
似たような文体で書いていてさえも。
ごく少数の例外を除けば、個々人それぞれが「ソロ」でブログを書いていて。
だからその注目度の差の源泉は「『個性の実力』の差」なんだろうと考えるわけですが、ならばとその「力」を分析しようと思ってもどうにも"測れない"。
はっきり何だとは説明できないけれど、確かに存在する「ちがい」。
話題を真似ても文体を真似ても、絶対に同じポジションには立てない、それぞれの「ちがい」。
(まぁ、そのちがいが見えないからお前は底辺なんだと言われそうですが)
じゃぁ、だからどうしたいのだ、ということではなくて、ただ、
書かれた文章が"ひとしく尊い"などということは(結果的には)絶対にありえなくて、ここは定性も定量もできない謎の"実力"による残酷なまでに冷厳な階層ができてしまう世界なんだと思う、という感想を(何回目になるか分からないけど)書きたかっただけで。
だから、(これは上記すべての引用元とは関連の無い想いですが、)「書けば即ち世界へ届く」などといった煽り文句で書くことを推すようなふるまいというものは、現実に届く範囲を考えればある意味罪作りであろうと思うのです。
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