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2007.05.31

かつての夢想が今(ちょっとだけ)現実に?

なんにも知らない
(ああ)ROMに戻って
(ああ)やりなおしたい夜も
たまにあるけど♪


なんにも知らない、ではなくまったく逆なのですが。

mixiリセットとケータイメールのアドレスを変えるのは同じ感覚-ネット上の人間関係再構築- : ARTIFACT ―人工事実―を読んで、そういえば、とふと。

卒業も近くなってくると他愛もないおしゃべりのなかで「いまの知識を保ったままで1年生の頃に戻れたら(、もうちょっとうまくやったのに)」なんてネタが一度や二度は出てきたことがあるかと思いますが……

ネットでのそういう「リセット」って、ある意味その夢想を可能にしたようなものか。


で、実際リセットして前よりうまく立ち回れた実感のある方の割合ってどれくらいなんでしょうね。
いや、純粋に興味として、ですが。

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2007.05.25

仕組みやら中身やら年季やら

一般に初心忘れるべからずなどと申しますがなかなかに難しいものでございます。

明日は明日の風が吹く - フューチャリスト宣言のこの部分に反応。
(本題の本自体に関わるハナシじゃないですが)

そこへの感動というものが無くなってしまうぐらい、日々、当たり前のようにネットのメリットを享受する生活を送っているのだなという事をも認識したというべきかもしれない。

始めた頃は「仕組み」を見ていたしそれが輝いて見えていましたよねそういえば。

いまはほとんど完全にといっていいほど「そこに書かれている中身」を見ていますけれども。


で、1週間前に頂いていたトラックバックにいまごろ反応するのですが:

S嬢 はてな - キスやらヒゲやら記憶やら

人がわたしのものを覚えていてくれるのかどうかはわからんが。でもわたしは記憶する文章は多いですよ。あの人のアレ、って感じで記憶する。たまにその人んとこ行って、ブログ内検索窓で出して再読なんてこともしますよ。

そういえば始めた頃はそういうことが私もあったのを思い出しました。
但し自分が再読したいというよりはその人の表現を借りて、リアルの身近の、そしてこの世界に関心のないひとたちに、実は腹の中で日頃うっすらと私が考えているようなコトを伝えたい、というような目的でしたけれども。

そんな「強い思い」もふと気付くと薄れてきた感もある今日このごろ……


あの頃は「仕組み」が輝いて見えていた分「その中身」も文句なく輝いて見えていた、のかもしれません。
「仕組み」は淡々と使うようになった今でも中身まで淡々と受け取るわけではなくてもちろん「読んで感じる喜怒哀楽」というのはあるのだけど、どうもワイドショー的なとらえ方というか[感情の有効期間:次の画面に移るまで]になってしまっている/してしまっているなぁ、と。

(よく分からない期待感から)実態以上に大袈裟に捉えることがなくなったという見方もできるわけで「年季が入ると汚れてくるから」というような結論に持っていくハナシでもなければその必要も感じないですけれども。


とりとめもない感想のようなものですが、とにもかくにも、
初心忘れるべからずなどと申しますがなかなかに難しいものでございます。

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2007.05.19

知恵を絞るか、話題を絞るか

ひとつ前の記事にトラックバックでお返事を頂きましたので。

北の大地から送る物欲日記 - リスクをとるか、自由をとるか

酷評の書き方、内容、事実との関係、いろんなことを考慮した上で、損害を補填するに値する場合はあるでしょうが、酷評=損害補填責任まで直結してしまうのは短絡的かな、と。

うーん、話題にしている元記事:[ブロガーは、表現においてリスクテイクをすべきだ - エコノミー、マーケティング、そして IT]の表現は、短絡的というか多少脅しを効かせる意図(が結果的に反発を受けた)かなという読み方をしましたが。

そして私も言葉は悪いですが「調子に乗ってると痛い目にあうかもよ?」というのはちょっと大きめの声で言う必要があるんじゃないかと、"ネット世間"を眺めているとそういう気はしているものですから、素直に警句として受け取ったわけでして。


あまりリスクを重視しすぎると何もかけなくなってしまう。
いや、前にも書きましたけど、もう「ブログしている」時点ですでにリスク……ってのは半分冗談ですがそれはともかく。

前向きに考えれば、そこが知恵の絞りどころですよ、って(笑)。
いかにリスクを小さくして伝えたいことを伝えるか
名誉毀損にならないギリギリの表現を考えるのか、
感謝されるクレームというか「建設的な批判」を考えるのか、
考え方の方向はそれぞれでしょうけれども。

それか、もしくは……
「しても物議にはならなさそうな話題」に限定すること、でしょうね。
それでいて読者を得ようとするなら、もっと知恵を絞らないといけないかもですが(苦笑)。


個人的には、これも言葉は悪いですが「いちいちリスクにおびえながら」書くぐらいで実際はちょうどいい塩梅なのではないかと考えるのですが、こういうことを書いてもえてして逆効果だったりするのが(^^;。
ただでさえあれやこれや気を遣っているひとをさらに萎縮させて、本当に伝えたい「いつも思い切りすぎ」なひとには反発されたりしてね。

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2007.05.18

りーがるりすく

ネット界隈の一部方面では「disる」というのか、対象をクソミソにけなす文章は珍しくもないようですが……
もとはとあるバラエティ番組の話題にあったという「ラーメン店をブログで酷評したら」という話のようですが、 ブロガーは、表現においてリスクテイクをすべきだ - エコノミー、マーケティング、そして IT
事例の人気ブロガーは、自身のエントリに起因するラーメン店の損失を担保できるだけの経済的余裕はあるのか?とうぜんないだろう。
 ならば、そういう、特定の経済主体、この場合はラーメン店を酷評するということはすべきではない。
に対して、 北の大地から送る物欲日記 - ブロガーが表現で気をつけなければならないことで:
なぜラーメン店の損失を補填しなければならないという論理になるのだろうか?
という疑問を呈しているのですが、 名誉毀損で訴えられるリスクはあるのでは? もちろん訴え(因果関係)が認められるかどうかは分かりませんが、ともかく損害賠償を求められる可能性(危険性)はあるように思うのです・・・というか、実際にいくつか裁判事例ってありませんでしたっけ、そして「裁判をちらつかせて黙らせる」という戦術も。 冒頭書いたようにたとえばブログ同士でも酷評だの悪罵だのを投げつけるようなことはよく見かけるわけですが、たとえば何らかの仕事に絡んで"ブログしている"相手に対してそういう悪罵を書いて、結果その相手の仕事に悪影響を及ぼしたりしたら、「営業妨害」ということにならないのかなと客観的に見ていても怖さを感じることがあるのですよ、素人考えですが。
まぁ酷評するならするでそういった法的リスクを受ける覚悟なり「名誉毀損にならないギリギリの表現」というものをその道のプロに師事するなりしてからのほうが良いのではないかなと、まぁいらぬお節介かもですが。

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2007.05.16

結局「憶えているのは自分だけ」だとしたら、やはりブログは「自分向け」なのだろうか

私は「読まれてナンボ」と思っていますし、何度もそう表現してきたのですが・・・

S嬢 はてな - いろいろ思った

アクセス波がばばっと来たりしても、一年たったときにそのことを誰が覚えてるんだろうってくらい、ネット上で流れる時間は早い。でも一年たっても二年たっても、自分が書き留めたものの中にいる自分が自分にはわかる。

ものすごく共感できてしまって。

前段、その「すべてが流れてしまうせつなさ」みたいなものを時が経つほど強く感じるようになってきて(だから"嵐のような反応"といってもあまり真に受けることもないと思うという表現になったりするわけですが)。

だから「読まれてナンボ」といっても記憶に留めて欲しいということでもないんです、
ぱっと見てぱっと(次に)移る、のではなくて、数十秒でいい、ざーっとでも読めるだけの間あなたの画面に映っていて、次のどこかへ移る間際にでも、「ふーん、そうかぁ」と何かを思って頂けたなら、それでじゅうぶん有難いのです。

……文字通り「有難い」ことでして、(実力不足で)なかなか思うようにいかないですが。


で、後段につながるわけですが、
確かに「(Windowsの)メモ帳を前にしてキーボードをカタカタ叩いた結果」というのは結構長い間憶えているものですね。
ただ、まぁ、わりと憶えているだけにあえて読み返したりは滅多にしないし「あのときにあんなこと考えてた自分」に感慨を新たにするなんてこともあまり無いですが(私は)。

それはともかくとして……

自分の書いたことは結局自分しか憶え得ないのだとしたら、やはりブログは「自分に向けて書くものです」としか言い得ないのかもしれない。
と思いつつも、
いややっぱりそれ(自分向け)を第一義にはしたくない、という思いとでざわざわせめぎ合っている、

そんな心情の記録。

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2007.05.15

続・「個性の実力」─測れないけど、なにかがちがう。

Kazuhiro's Weblog: ブログのアクセス数を増やすために試したい15の方法というエントリに対して、

ブログのアクセス数を増やす15の方法への反論という「そんな増やし方はどうかと思うよ」というエントリがあって、

また北の大地から送る物欲日記 - ブログのアクセスがどう増えたか振り返ってみてでは

アクセス数にこだわりすぎないで気楽に書いてると、そのうちアクセスがついてくるんじゃないかと。

という経験談が語られたりして。

それらと、「最初の半年から見れば一旦は倍増以上になるもその後安定からやや漸減傾向」である自分の平均アクセス推移を重ね合わせてみた上で、

Lifestyle Innovation for Bloggers 思考の翼をひろげて。 - アルファブロガー批判。の終段:

ぼくはブログに書かれた文章は、アルファだろうがなかろうが、すべて尊いと思っています。フラットであるべきではないのか。

へ反応。

(結果からすれば)それは幻想ですよ、と。



いや、私もできるかぎりフラットであってほしいと思うのですよ、
なにせ「『護送船団・結果平等』大好き人間」ですから。

ですが。

ただ自由に書いているうちに自然とアクセス(および反応)が右肩上がりになるブログがある一方で、
さまざまな手段を講じた奮闘努力の甲斐も無く(ウザがられこそすれ)読まれないままのブログがある。

似たような話題を取り上げていてさえも。
似たような文体で書いていてさえも。

ごく少数の例外を除けば、個々人それぞれが「ソロ」でブログを書いていて。
だからその注目度の差の源泉は「『個性の実力』の差」なんだろうと考えるわけですが、ならばとその「力」を分析しようと思ってもどうにも"測れない"。

はっきり何だとは説明できないけれど、確かに存在する「ちがい」。
話題を真似ても文体を真似ても、絶対に同じポジションには立てない、それぞれの「ちがい」。
(まぁ、そのちがいが見えないからお前は底辺なんだと言われそうですが)



じゃぁ、だからどうしたいのだ、ということではなくて、ただ、

書かれた文章が"ひとしく尊い"などということは(結果的には)絶対にありえなくて、ここは定性も定量もできない謎の"実力"による残酷なまでに冷厳な階層ができてしまう世界なんだと思う、という感想を(何回目になるか分からないけど)書きたかっただけで。

だから、(これは上記すべての引用元とは関連の無い想いですが、)「書けば即ち世界へ届く」などといった煽り文句で書くことを推すようなふるまいというものは、現実に届く範囲を考えればある意味罪作りであろうと思うのです。

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2007.05.09

トラックバックURLから推測したココログ総投稿数の推移(1500万編)

※あくまで「トラックバックURL末尾の数字が通し番号」と仮定して

サービス開始:2003.12.02


100万:2004.07.20(頃と思われる):約230日
200万:2004.11.18:約120日
300万:2005.02.19:93日
400万:2005.05.05:75日
500万:2005.07.17:73日
600万:2005.09.18:63日
700万:2005.11.09:52日
800万:2006.01.04:56日
900万:2006.03.08:63日
1000万:2006.05.10:63日
1100万:2006.07.18:69日
1200万:2006.09.22:66日
1300万:2006.12.09:78日
1400万:2007.02.21:74日

1500万:2007.05.08:76日

(末尾の日数は各100万区間に要した日数)

グラフ


*グラフの末尾数字サンプルは自分の全投稿(同一日に複数投稿した場合は最後のもの)

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2007.05.08

とりとめもない連想


asahi.com:公衆電話、20年で39万台に半減 災害時への懸念も - 暮らし
ですよねー。ここまでケータイが普及するなんてねぇ。

そういえば、

ついこの前整理していたら『電電公社』(お、一発変換する)時代のテレホンカードを発見。もう少し保持しておけば高く売れるかしら(笑)。

そういえば、

公社からNTTになったとき(?)の企業CM、薬師丸ひろ子サンの「あなたを・もっと・知りたくて」だったっけ。

そういえば、

(歌詞書かないけど)この歌、twitterがもしCMするとしたらピッタリの曲かも。使ったことないけど

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2007.05.02

(無題)

思いついたフレーズ、ぐぐって見つからなかったから嬉し気に。




会議なんてただの飾りです。偉い人ほどそれがわかってるはずです。


義務教育の"ホームルーム"。
「(意見は)ありません」「(前の人と)同じです」
自分の意見を言わないことは変人の烙印を押されないための絶対の掟で。

そのうち働き始めて。
WC。
廊下。
カウンターのむこうのママと話しながら。
本当に重要なことほど会議室の外で決まって。
全会一致の結論はあとで出てきた異論にいとも簡単にひっくり返されて。

年季が長けりゃその分、繰り返し経験してきたはずのものを。


「なんで発言がないのか」なんて嘆いてみせるけど。
ホントに分からないのか。
本気で分からないのか。

その嘆く態度自体、タテマエのにおいがぷんぷんするのに。

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