仕組みやら中身やら年季やら
一般に初心忘れるべからずなどと申しますがなかなかに難しいものでございます。
明日は明日の風が吹く - フューチャリスト宣言のこの部分に反応。
(本題の本自体に関わるハナシじゃないですが)
そこへの感動というものが無くなってしまうぐらい、日々、当たり前のようにネットのメリットを享受する生活を送っているのだなという事をも認識したというべきかもしれない。
始めた頃は「仕組み」を見ていたしそれが輝いて見えていましたよねそういえば。
いまはほとんど完全にといっていいほど「そこに書かれている中身」を見ていますけれども。
で、1週間前に頂いていたトラックバックにいまごろ反応するのですが:
人がわたしのものを覚えていてくれるのかどうかはわからんが。でもわたしは記憶する文章は多いですよ。あの人のアレ、って感じで記憶する。たまにその人んとこ行って、ブログ内検索窓で出して再読なんてこともしますよ。
そういえば始めた頃はそういうことが私もあったのを思い出しました。
但し自分が再読したいというよりはその人の表現を借りて、リアルの身近の、そしてこの世界に関心のないひとたちに、実は腹の中で日頃うっすらと私が考えているようなコトを伝えたい、というような目的でしたけれども。
そんな「強い思い」もふと気付くと薄れてきた感もある今日このごろ……
あの頃は「仕組み」が輝いて見えていた分「その中身」も文句なく輝いて見えていた、のかもしれません。
「仕組み」は淡々と使うようになった今でも中身まで淡々と受け取るわけではなくてもちろん「読んで感じる喜怒哀楽」というのはあるのだけど、どうもワイドショー的なとらえ方というか[感情の有効期間:次の画面に移るまで]になってしまっている/してしまっているなぁ、と。
(よく分からない期待感から)実態以上に大袈裟に捉えることがなくなったという見方もできるわけで「年季が入ると汚れてくるから」というような結論に持っていくハナシでもなければその必要も感じないですけれども。
とりとめもない感想のようなものですが、とにもかくにも、
初心忘れるべからずなどと申しますがなかなかに難しいものでございます。
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