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2007.07.26

実名匿名のメリットデメリットに話が矮小化されてまとめられつつある件について。

問題視すべきは『やまほどヤジられて「上質なコンテンツおよびコミュニケーション」が潰される』現象(だったはず)。
そしてその現象は「よろしくないこと」である、という認識は場の総意(のはず)。

で、小倉さんの実名化の提案(というか信念というか)に対して、べつに実名化したからといっても粘着するひとは居るし中傷するひとも居るでしょ、というのは少なくとも言及した側にとっては共通認識(のはす)で、小倉さんも「実名でもトラブル自体はなくならない」点については同意済み

したがって『ヤジられて潰される』問題にとって実名匿名問題は本質ではないはず……にもかかわらず、なんで寄ってたかって"実名匿名のメリットデメリット説明"の千日手にはまり込みますか。
のみならずそっちの方向の議論で場の雰囲気が固定され、しまいには数ヶ所"実名匿名論"の冠名でまとめに入りつつある、ってのはどうも納得がいかない件。

なお、『この問題の根本』から見たら枝葉末節でしょ、ということであって、"実名匿名論"の否定ではないことに注意。
(とはいえわたしたち一般ピープルにとっては「畏れよ、未来を」の一言で済む話と思いますが)


この件について最初に思ったことと、
直近の考察へのリンクを置いておきます。

要するに、
ブログというのは『「マジメスギ」さんと「フザケスギ」さん、そして(圧倒的に多い)他愛もない娯楽としての参加者が何らの分け隔てもなく並存する世界』であって、即ちヤジ等のネガティブフィードバックを本質的に防げないものであり、また"「質」への欲求/要求"も圧倒的多数にとっては優先事項ではないこと、

そして「ヤジの減少」と「質の向上」を2つとも満たしたければ『我は「玉石の玉なり」と信ずる者たちの"ゲーテッド・コミュニティ"』をどこかに作り上げるしかないですよね?
ということ。

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2007.07.23

娯楽の場となったシステムに敢えて抗おうとする意味がわからない。

ところで小倉さん自身はここひと月ほどの自身のブログとそれをとりまく状況をどうお考えなのでしょう。
私の補足した範囲でもすでに2箇所で提起されていますが:
ekken: interlude 実名主義の小倉さん
髭暴 - 秘芸ちょう - なんだかんだ言って小倉氏も

というのは、後でまとめて訴えられたりしたらかなわんなと。ガクブル。
弁護士自身に訴えられたらそれを相談できる弁護士というのは存在するのかしら?



さて。

la_causette: 真っ当な神経の持ち主に参加を回避させるシステムに敢えてする意味がわからない。
誰かが自分の名前を騙って自分の社会的評価を低下させるようなエントリーを書き続けたり、あるいは、誰かが自分を誹謗中傷したり悪質なデマを流布したりすることによる精神的並びに経済的な損失を回避することは、ブログを開設しないことによってはできません。

意味が分かりません。
自分がブログを開設したとしても、他人によるそれら行為の『回避』なんて不可能ですよ?

回避しうる害悪は、コメントスクラム等程度だということが言えます。
意味が分かりません。 そもそも"コメントスクラム"ないしは"ネットイナゴ"と名づけられた現象に対する議論でしょうに。 話の本質を踏み外さなかった結果に対してなにが「程度」ですか。



たとえば社会問題に言及したとして、それが「居酒屋談義の肴」程度で上げたものであれ本当にシリアスなものであれ、全くフラットに扱われ(時のネタとして)消費されてしまう、それが(少なくとも日本語圏における)ブログの現状であり本質だと申し上げているわけです。

『「質」への幻想』から逃れられない方々へ何度も、何度でも繰り返しますが、ブログというものはもう既に娯楽のフェーズへと"進化"を遂げきった後であるという現状をまずしっかりと認識してください。
(念のため申し添えますが、上記はその是非を論じているのではなく、単に事実を記述したのみであることに注意ください)

その上で、それでもなお、
現状を鑑みるに当面"犠牲"が出続けることは避けられそうにないにも関わらず、その屍を積み重ねてまでもブログなるものの質的価値を僅かばかり延命させようとする意味がどこにあるのか私にはよくわからないです。

そんなことよりも、『現実社会にトレーサブルな属性を明らかにした者のみに限定され、かつ現実社会におけるメリットを享受する目的で、質の高い"大人の会話"を行うことのみに限定される場』を新たにどこかにつくりあげようとしていくことの方がよほど現実的です。

ブログというのはシステムの呼称であって使い方は人それぞれ、とは申しますが、現実社会へのポジティブフィードバックが機能しうるか、ということについて一般論で申すならば相当に悲観的でありましょう、正直にそう伝えることがせめてもの「誠実さ」だと考えます。

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2007.07.22

もう聴ききれなくても、もう読みきれなくても


ハードディスクの中の音楽ファイル。
いつも思うけど「2.5日」って合計表記もアレですねと思いません?(笑)

ほかにCDが100枚以上。
TVつけない音楽かけない性格&生活にもかかわらず。

本は、えっと、文庫本だけで……あぁ数えたくない。

既に所持のものだけでもう聴ききれないほどあっても、もう読みきれないほどあっても、
また新しいものを買う。

もちろんいくつかは何度も聴き返すし、何度も読み返すけれども、
ほんの一部にすぎなくて。

ふとひとつひとつが「結晶」だろうに、と思って、
「クリエイターさんごめんなさい」、という気になる……だけですけど(苦笑)。








クリエイターなおもて消費対象と化す、
いわんやブロガーをや・・・

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2007.07.20

救いたいのは、人か?ブログか?

私がここひと月超のあいだに何度か書き送ったのは『現状のネットで、とくにブログで、なにかを発することが引き起こすかもしれないデメリット』の記述であって、それが実名でなされるか匿名でなされるかなどという以前の問題であること、に注意していただきたく思います。

それと、「実力」が無ければ(圧倒的多数はそれ以前に見向きもされないままで)即淘汰される世界ですよね、というのが「冷厳なまでに弱肉強食」「一般ピープルにとって絶望の場」という表現の真意だったのですよ。



la_causette: 「出る杭を打つ」日本の悪弊をネットに持ち込みたくはない
「商業的価値にとらわれない言論の場」であって、そこに「大人の交流」が加わればなお良いと思いますが、「臆病者たちのストレス発散の場」とするには勿体ないと思っています

よい考えだと思います。(未来にわたって絶対の安全が保証されるならば)実名でも構いませんし、実現できるならばぜひ参加させていただきたいですね。

ですが、今のブログがそうでなければならない、ということに拘られるから、先月小倉さんが梅田さんを指弾されたときの表現である:

所詮は現実を無視したポジショントークでしかない

との謗りが小倉さん自身に帰ってきますよね?と申し上げているわけでして。


小倉さんが哀れに思うのは、救いたいのは、
ブログ(という仕組み)ですか?
"まともな神経の持ち主"ですか?

後者であると思ったからこそ、「たたかうだけが方法ですか」と問いかけたのですが。

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2007.07.19

ならば、その絶望を伝え広めよ。

それが「浴びる必要など無かったネガティブ反応に直面する不幸」を減らすための現実的な唯一解なのですから。

la_causette: NOVさんルールの行き着く先

嫌がらせをされたくなければ、ネットに近づかなければよい」的な極論にどうしても行き着いてしまうのではないかと思う

そう結論づけるのであれば、
日本人には、Web2.0は荷が重すぎた。そんな絶望的な事実が残るだけのこと

その"事実"に気付いたのであれば、

その絶望を伝え広め、参入に待ったをかけることこそが「不幸を減らすためにとるべき現実解」ではないのでしょうか。


再度問いますが、なぜ躊躇している人に参入を薦めようとされますか、のみならず再参入までさせたがりますか。
ブログに、ネットに、一体何を見出しておられるのですか。


ネットというのは冷厳なまでに弱肉強食・優勝劣敗がはっきりする世界ではないですか。
ですから、「怖いところ」「安全ではないところ」、というのは事実かもしれません。

決してそれを「望ましい」なんて思っていませんよ、(個人的には"護送船団""結果平等"をいまでも「是」としているくらいですから、)ただ、それが現実じゃないですか、と申し上げているわけで。



結論に至る過程については同意できませんが、
「ブログでは、非難されないためには話題が限定される」「一般ピープルにとっては絶望を感じることになる(かもしれない)」という結論については同意するわけで、ぜひとも闇に気付かせる役目として影響力を発揮していただければと。

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2007.07.16

たたかうだけが方法ですか

小倉さんの考えるところの「上質なコンテンツ」が「絶対的な安全・安心のもとに」「ブログで」成しえるかどうか。
『そうであればよい』という願望は、小倉さんにも私にも他に言及されている方々にも共通ですが、
『そうでなければならない』と要求を引き上げるから、それは(現状)難しいですよ、(今は)幻想というしかないですよ、と申し上げているわけで。

la_causette: 「実名が明らかになったら負け」という殺伐したルールの下では質の高いコンテンツは期待できない

匿名性を維持することでしかセキュリティを高められないシステムの下では、匿名性を維持したままでも発信できる程度の情報しか発信できません。(中略)現実社会での自分の実体験や自分の専門領域に関するエントリーを公表するのは非常に危険であって、するべきではないという方向に流れがちです。

そうかもしれません。
身の危険は回避するに越したことは無いですよね……(言葉は悪いですが)たかがブログで。

そのような現状認識をお持ちでありながら、それでもブログに拘るのはなぜですか、なぜ「ブログで」コンテンツを発信させようとされますか。

それに……たたかうだけが方法でしょうか?

(例えば小倉さんが、自身の実体験を踏まえて、)"集合知"だ何だという期待からのがれられずにいる一部の人たちに、このろくでもない世界からの脱出を進言すること、好ましくはその脱出の手引きをすること、せめて自らの姿を反面教師として受け取ってもらうこと、というのもひとつの方法かもしれません。
ブログを「恐れない、エントリを出さない、利用しない」の三ない運動とか、
ブログを「しない、させない、見に行かない」の三ない運動とかどうですか、
小倉さんのような現状認識であればなおさら。

(今の)ブログに、ネットに、人生絡め取られてはいませんか?

戦略的撤退、という言葉もあります。
「上質なコンテンツ」を「絶対的な安全・安心のもとに」コミュニケーションしうる、それはブログではないかもしれませんが、その『機が熟すのを待つ』のも選択肢かもしれません。もちろん将来にわたって存在する保証はありませんが。



私ですか?
私は"今のブログ"でも構わないですよ、原則現実社会にリンクさせたくないですし、そもそも「余暇の一部」の領分を厳格に守りたいですし。

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2007.07.11

敷居と質の高低について、そして「どこから発信すべきか」ということについて。

ある「場」がつくられます。
最初、少人数のうちは"志"は高いのですが技術的心理的に"分かっている人しか入れない"ぶん敷居も高く賑わいには欠けます。
その壁を越えどうにか頑張って"敷居を下げて"、入りやすい状態が作られると幾分カジュアルにはなりますが活気が出てきます。
活気が人を呼び、さらに活気が出て、ある程度までは「量」が「質」に転化します。
しかし、
その敷居の低さが、流入してくる人が、「ある程度」を超えた途端、「量」が「質の低下」を意味するようになってしまいます。

そして、ネットにおいて、その「ある程度」を維持できた場の例を、私は知りません。


la_causette: 説得する相手は私や池田先生ではない。

ネガティブコメントの攻撃を受けることに恐れをなしてブログを開設することを躊躇している人を、ブログを開始ないし再開しようという気にさせられなければ、ブログの情報源としての価値は下落することはあっても向上することはないのです。

一連のエントリから、反応の敷居の低さが質のそれにつながっていること、および『「発信の敷居は低く、反応の敷居は高く」というのが理想』と読み取りましたが(違っていればご指摘いただければ幸いです)、少なくとも今現在のブログにおいて発信と反応の敷居を分けることは現実的ではないでしょうし、
ポジティブ(かつ上質?)な反応以外してくれるな、というのであれば、そもそも発信の場をネットに求めるべきではなく、ましてやそれをブログに求めるなど論外なのではないかと思います。
(くどいですが、今現在は、ですよ!)

それに、「ブログの情報源としての価値」と仰りますが……少なくとも今現在においては(しつこいですが)圧倒的多数にとってブログは娯楽源なのだ、という認識をそろそろ覚えても良いのではないかという気がします。


なにごとかを発信すれば(まったく見向きもされない結果も含めて)無傷ではいられません。しかし、その傷の深さは再起不能な程度にまで達してはなりません。
「今のブログ」では、その「~なりません」の部分を、誰も担保できないですから。

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2007.07.06

カジュアル度とネガティブ度ってのは、もしかして比例しているんじゃなかろうか

娯楽性と攻撃性、と言いかえてもいいけど。



ARTIFACT@ハテナ系 - ポジディブ情報が少ないのではなくて、ポジディブ情報が注目されにくく、ネガティブ情報が注目されやすいのではないか?

仮にそうだとしても「見つけられらなければ無いのと同じ」理論でいくと明るい話が『少ない』という表現にも一理あるような。
→関連:モメゴトは増えた。さて、ほのぼのは増えたか?(2005.10)

#でも「"ブログする"こと」そのものに対してだけはポジティブに煽るひと結構多いよねー
……というのはともかく、
ARTIFACT@ハテナ系 - ポジディブ情報が少ないのではなくて、ポジディブ情報が注目されにくく、ネガティブ情報が注目されやすいのではないか?の:

マスコミでは経済関係だとネガティブな情報は少ないんだよなあ。

という最終段のひとことを読んで思ったことがタイトル。


たとえば、
業界紙誌-一般ニュース紙誌-週刊誌・スポーツ紙・タブロイド紙等
というように[フォーマル←→カジュアル]で分類すると前者よりは後者の方がネガティブ度は増している印象がありますがどうでしょうか。

実際こんな見方もあったりしますが:

週刊誌ジャーナリズムは、基本的には批判と糾弾を旨とするメディアだ。

─<山根一眞:『[文庫版]メタルカラーの時代11-わくわくする大科学の創造主』(小学館文庫:2005)の「文庫版まえがき」冒頭>より

娯楽性が高いほど攻撃性も増している、とも考えられるような。(但しこれは因果が逆の可能性も)


「文字(活字体)で」「不特定多数に読まれることを想定して」なにかを述べる世界にそういう比例関係があるとするならば、
(何度も書くけど) 圧倒的多数にとっては完全にカジュアルでかつ娯楽であるブログのようなものにおいて、ネガティブなものが幅を利かせることに何の不思議がありましょうか?と思ったので。

……と印象論で話を組み立ててみました。


ネガティブな話が目立つ(ように感じる)この世界にあって、「ここに行けばいつもほのぼのできる」という評価を得られる場を運営できれば、それはものすごく価値を持つだろうと思いますけどね。

→関連:たとえば、[ちょっと休憩☆]という価値。(2007.03)

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2007.07.04

明日は我が身の

大臣がお辞めになったというニュースがありましたが。
((ネットの外の)時事の話題をあれこれ評するのは主義に反するのでその内容は触れませんが)

「ブログしている」私たちにとっては『明日は我が身のその怖さ』といいますか。
字面通りの居酒屋談義すらそれを文字に記せば"炎上"することもある昨今、「ひとつの失言」が「築き上げてきた全て」を無にするその怖さというものを改めて感じさせる一件ではなかろうかと。


…大臣だからとか時期がどうだとか
そんな他人事な話じゃあ 断じてねえ

もっと恐ろしいものの片鱗として味わうべきだぜ…

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