カジュアル度とネガティブ度ってのは、もしかして比例しているんじゃなかろうか
娯楽性と攻撃性、と言いかえてもいいけど。
ARTIFACT@ハテナ系 - ポジディブ情報が少ないのではなくて、ポジディブ情報が注目されにくく、ネガティブ情報が注目されやすいのではないか?
仮にそうだとしても「見つけられらなければ無いのと同じ」理論でいくと明るい話が『少ない』という表現にも一理あるような。
→関連:モメゴトは増えた。さて、ほのぼのは増えたか?(2005.10)
#でも「"ブログする"こと」そのものに対してだけはポジティブに煽るひと結構多いよねー
……というのはともかく、
ARTIFACT@ハテナ系 - ポジディブ情報が少ないのではなくて、ポジディブ情報が注目されにくく、ネガティブ情報が注目されやすいのではないか?の:
マスコミでは経済関係だとネガティブな情報は少ないんだよなあ。
という最終段のひとことを読んで思ったことがタイトル。
たとえば、
業界紙誌-一般ニュース紙誌-週刊誌・スポーツ紙・タブロイド紙等
というように[フォーマル←→カジュアル]で分類すると前者よりは後者の方がネガティブ度は増している印象がありますがどうでしょうか。
実際こんな見方もあったりしますが:
週刊誌ジャーナリズムは、基本的には批判と糾弾を旨とするメディアだ。
─<山根一眞:『[文庫版]メタルカラーの時代11-わくわくする大科学の創造主』(小学館文庫:2005)の「文庫版まえがき」冒頭>より
娯楽性が高いほど攻撃性も増している、とも考えられるような。(但しこれは因果が逆の可能性も)
「文字(活字体)で」「不特定多数に読まれることを想定して」なにかを述べる世界にそういう比例関係があるとするならば、
(何度も書くけど) 圧倒的多数にとっては完全にカジュアルでかつ娯楽であるブログのようなものにおいて、ネガティブなものが幅を利かせることに何の不思議がありましょうか?と思ったので。
……と印象論で話を組み立ててみました。
ネガティブな話が目立つ(ように感じる)この世界にあって、「ここに行けばいつもほのぼのできる」という評価を得られる場を運営できれば、それはものすごく価値を持つだろうと思いますけどね。
→関連:たとえば、[ちょっと休憩☆]という価値。(2007.03)
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