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2007.07.11

敷居と質の高低について、そして「どこから発信すべきか」ということについて。

ある「場」がつくられます。
最初、少人数のうちは"志"は高いのですが技術的心理的に"分かっている人しか入れない"ぶん敷居も高く賑わいには欠けます。
その壁を越えどうにか頑張って"敷居を下げて"、入りやすい状態が作られると幾分カジュアルにはなりますが活気が出てきます。
活気が人を呼び、さらに活気が出て、ある程度までは「量」が「質」に転化します。
しかし、
その敷居の低さが、流入してくる人が、「ある程度」を超えた途端、「量」が「質の低下」を意味するようになってしまいます。

そして、ネットにおいて、その「ある程度」を維持できた場の例を、私は知りません。


la_causette: 説得する相手は私や池田先生ではない。

ネガティブコメントの攻撃を受けることに恐れをなしてブログを開設することを躊躇している人を、ブログを開始ないし再開しようという気にさせられなければ、ブログの情報源としての価値は下落することはあっても向上することはないのです。

一連のエントリから、反応の敷居の低さが質のそれにつながっていること、および『「発信の敷居は低く、反応の敷居は高く」というのが理想』と読み取りましたが(違っていればご指摘いただければ幸いです)、少なくとも今現在のブログにおいて発信と反応の敷居を分けることは現実的ではないでしょうし、
ポジティブ(かつ上質?)な反応以外してくれるな、というのであれば、そもそも発信の場をネットに求めるべきではなく、ましてやそれをブログに求めるなど論外なのではないかと思います。
(くどいですが、今現在は、ですよ!)

それに、「ブログの情報源としての価値」と仰りますが……少なくとも今現在においては(しつこいですが)圧倒的多数にとってブログは娯楽源なのだ、という認識をそろそろ覚えても良いのではないかという気がします。


なにごとかを発信すれば(まったく見向きもされない結果も含めて)無傷ではいられません。しかし、その傷の深さは再起不能な程度にまで達してはなりません。
「今のブログ」では、その「~なりません」の部分を、誰も担保できないですから。

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