とはいえ、「信じるものは救われる」感なきにしもあらず。
前のエントリの続き、のようなもの。
トラックバックできないようですが、
相変わらず新興宗教が流行っている | AlbinoAlbinism:
社会構造からくる閉塞感と将来への不安を背景に、それらをあたかもWebやネットが打破してくれるような幻想を(中略)与えようとする。これを妄言と呼ぶのは中身が嘘っぱちだからだ。(中略)小学生でも俄かに信じがたい幼稚な妄想が多数のブクマを集めるのは、彼らの抱いている不安感の大きさを反映している。まるで新興宗教だ。教祖様のありがたい説教に対して、お布施や壺の代わりに喜んでブクマを寄進している。
そうそう。
その「希望」に対する「信心の発露」としてソーシャルブックマークしてるんじゃないのか、と思えることがありますね。
自分のこととして考えたときに、その「希望」の側に乗っかれると本気で信じてるのか?と、強く問い詰めたくなるときがあります。
だけどね……
その誰かさんと同じように「希望」を語ると、これが結構ウケてる(反応を得てる)んですよね。
私みたいに「絶望」を語ったって、まずウケない(苦笑)。
ネットに、少なくとも「ブログすること」に対しては、これはものすごくはっきりしていますよね。
いや「私が」見られない(←読まれない、ですらないことに注意!)のはどこかの落選候補じゃありませんが「ひとえに私の実力不足で」という以外のなにものでもないにしても、
"半径ワンクリック"でも「希望」を語るのはよく引っ掛かるのに「絶望」を語るのはまずお目にかかれないのだから、つまりそれは始めから存在していないかまたは淘汰されて届かない、ということで。
……で、
信じて同じように「希望」を語るとウケやすい、
ということは「つながり」もできやすい、
ということは単純な確率論で言えばそこからなにがしかの現世利益(笑)を得る可能性もUP!するわけで。
実際どれほどのものかはともかく、結果的に「信じるものは救われる」感なきにしもあらず。
まぁ、だからといって私は実体験を通した「私に見える現実」に嘘はつけませんので、その「ご利益」の列には並ばないし並べないわけですけれども。
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