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2007.09.30

しなやかに飛べたら

数打ちゃ当たる、数を打たなきゃ当たらない、どっちかはともかく、
しなやかにいろいろなコトを試せばいいのかもしれないですけど……

やる気はあるけん、
体がついてこん

ってなにかの栄養剤のCM。たぶんまだ昭和だったころ。



北の大地から送る物欲日記 - 求めよ、さすれば与えられん
ネット上で自分の安住の地を見つけられるか、なかなか見つけられずにもがき苦しむか。

この一言で終わってしまう、というくらいに図星で。
まぁ、もがいているといえるほどあちこち頑張ってはいないのですが、
ともかく、我に安らぎを。


ただ……ここの優先順位も今更下げ難い、というか(苦笑)。
記憶の中にある楽園、これから作っていく楽園 ひとりごと/ウェブリブログ

流した数に対して拾われたという反応を貰える事は、パソ通時代に比べたら何百分の一かもしれない。
でも「0じゃない」。

なんですよね。
というか、ごめんなさいごめんなさいごめんなs
あんまり絶望を綴り続けるのも「今」ここを見てくださっている方々にはなにかと申し訳なかったりするわけですが、しかし彼我の差が存在しないが如き一般論としての希望にはいちいちつっかかりたくなるわけでして(しどろもどろ)。
……ともかく「0ではない」だけに、「いつかは~」という期待から抜けられないのも事実で。


ただ、どこにせよ、見つけた安住の地が永遠ではないことにも私たちは気付いてしまっているわけで、"ネットに住む"限りは終わらない彷徨を続けなければならないのかもしれませんね。


かといって何でもかんでも手を出してみるというのもデメリットがあるし。
前に書いた→CRM - Communication Resource Management(2007.04)



北の大地から送る物欲日記 - 求めよ、さすれば与えられん
あのニフティの黄金期を支えていたような人たちは今でも存在してて、そういう場所を探し求めればいつかはたどり着ける。そんな風に思っています。

ほんとにあの人たちはどこへ行ったのだろう?と思いますね。
いろいろ分析はあるのでしょうが、なにより「歴史は逆回転しない」という点において、ああいう「大きな場」が戻ることはたぶん無くて。
でも、懇意にしていただいていた方々の半分くらいとはいまでも辛うじてつながりを保ってはいるのですが、逆に言えばだからこそ、

終わりを告げた楽園にすがるのはやめにして

というわけにもいかなくて、

他のウェブサービス愛せればいいのだけれど
それはちょっとできない相談ね

と、そんな気分を昭和のCMで始めて昭和のうたで締めてみました。

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2007.09.29

楽園を見つけし者、楽園を追われし者

結局は「※個人差があります。」の一言に尽きるのかなと思うと救われないような気もするし("信心"次第で)救われるような気もするし(苦笑)。

北の大地から送る物欲日記 - 信じた行動が実感に繋がったとき

上述の行動が必ずしも自分が期待したどおりのアクセス数増加に結びつくか?と言われたら、そうならない場合も多々ある、という答えになります。

ですよね、というか、
誰かの実感はあくまで誰かの実感、であって。
界隈にはそんな"自分が未だ到達できない境地"をさも一般論のように書いた「希望のことば」があふれていますから、そうじゃない場合も多々あるんだよと、"一般論"とまではいえないんだよと、ただそれを伝えたいだけなんですけどね。

……まぁ、「書けども伝わらない(どころか(略))絶望」がそんなに簡単に伝わったらまさに矛盾なわけで(笑)、今回も伝わらなかった、という証拠が積み重なるのは、ある意味(悲しむべきことではなくて)そうでないと困るともいえるわけですが。


読まれてナンボ、と思っていて、
でも「ウケ狙いで」「思ってもいない事」は書けなくて、
自然体でやっていくしかなくて。

それでいて

私の場合は、いいタイミングで「信じ続けたから実感を持てるようになった」「実感を持てたから信じるようになった」がループする状態に入れた

という実感が持てる人と、そこにたどり着けずに悶々としている(もしくは諦めた)人と、どちらがどの程度存在するのでしょうか?
その真の数値を知りたいと思う。
私が分布のどのあたりに位置するのかを。


ただ、同じようなアクセスや反応やその比率やらを前にしてどういう実感を持つかというのも人それぞれではあるのかも。

明日は明日の風が吹く - 2007-09-28

たった一回の経験で実感出来、信じる事が出来た、という事かな。

……贈り物ってたまにしか貰えないから、その分嬉しさが大きいのかもね(笑)。

前にも何回か会話したような気がしますが、このあたりの感覚は出自、といえば誤解されるかもですが、基準をどこに置くかによって変わってくるものなのかな、と。

基準を、かつての"ホームページ付設の掲示板(または連絡フォーム)"のことを思えば、(この反応の多さは)楽園に思えるかもしれませんね。
わたしはどうしても(ニフティの)フォーラム(の黄金期)を基準にするから。
なにかを書けば、何らかの反応──しかも一言の相づちや罵倒ではない、文章の体を成している──への期待値というのはものずごく高かった。そりゃ向こうでだってそれ専用の場所に書いた自己紹介を捨て置かれたことはあるけれど、平均して期待値5割は見て良かったと思うし。
そういう「場の持つ力」から放り出されて、"ピン芸人"として(って芸人じゃないけど)ネットに立ち向かっていかねばならない辛さ寂しさ。
それを、私は感じるから。

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2007.09.28

「それが大事」と人は言う。

北の大地から送る物欲日記 - なぜネット上に何かを書くのか

たとえ直接反応が無かったとしても、自分が書いたことを見てくれている人がいる。反応がなかったとしても、自分の書いたことはじわじわとどこかの誰かに伝わっている。

それを『信じれるかどうかにある♪』ということなのだろうとは思うのです。
……と、数日前の起きぬけにラジオから流れてきたその懐かしい曲につなげてみる。

ええ、いつもネガな私だって心の奥底では信じていますとも。そう思ってなければやってられないですし。
・・・我に実感を。


不定期にいわゆる個人ニュースサイトに拾われることもあって(お世話になっております>関係各位)。
『もう「[コメント(0)|トラックバック(0)]の死屍累々」とは書けない』程度の累積にはなってきて。

それでも(公開後)1~2日の間にそういう"僥倖"に恵まれることのなかった日常の、
「書けども書けども伝わらない(どころか読まれない(どころか見られもしない))」という実感もまた、決して"なかったこと"にはできないから、その"事実"を伏せた"信仰のことば"は書けないから。


コツコツ書いていればアクセスはついてくる?
うん、私には当てはまらないよ。

トラックバックでつながりを増やしてみれば?
うん、やってるよ、
言及を断られる──(届いたことを現認した)言及TBを消された、の意──ことが立て続けに起こっても、
懲りずにね。


……「信じぬくこと」のなんと難しいことよ!


関連→とはいえ、「信じるものは救われる」感なきにしもあらず。(2006.08)


信心を綴るみなさんへ、
実感を持てているみなさんへ質問。
「信じ続けたから実感を持てるようになった」のですか、
「実感を持てたから信じるようになった」のですか。

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2007.09.25

理想の読者は自分のコピー、理想のブログも自分のコピー。

……かも、しれません。

かつてこう書きました:

理想の読者=自分のコピー(2005.11)

数学の証明問題でいうところの「逆もまた真」ということ...で良かったんだっけ(^^;;;


読み手として見たときの「自分にとっての理想の」ブログというのは、

自分が(おぼろげに)考えていたことを、
自分が思いもつかなかったような表現で、
そして、自分よりも伝わるように
書いてある──つまり、代弁してくれていると思える──ようなところ、

だったりもします。

理想の読者を自分の「ミニ」コピーだとするなら、
どう表現すればいいでしょうか、ビッグコピーなんて言葉はないし(笑)、自分の進化版というか。


「最近つまらなくなった」なんて勝手な感想を抱いたりすることも、まぁ、過去にはゼロではないわけですが(苦笑)、
それって、読み続けているうちにどうも自分との「ズレ」が目立ってきた、そんなことが原因だったりしますから。



自分には思いもつかなかった「視点」を(いつも)見せてくれる、というのも『読みに行こうと思う』価値は大いにありますから、なにも共感だけで"質"を決めるわけではないですが。







「ブログの質ってなんだろね」みたいな話(というあいまいな表現しか今は出来ない)を読んで思ったこと。

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2007.09.21

たばこは嫌です。でも、酒のほうがもっと嫌です。

長寿刑事ドラマ(複数)において、酒造会社がスポンサーであったために、全何百話中ただの一度も「酒に酔った犯人」が出なかった、というのは有名な伝説ですが。

リアルじゃ酔ったが為の犯罪なんて、枚挙に暇がないでしょう!

禁煙/嫌煙運動がこれだけ(世界的に)盛り上がり、他方禁酒/嫌酒の動きが一向に広がらない理由を、どなたか合理的に説明してくださいませんか。


嫌煙が吐く言葉の激しさを見るにつけ、あるいはそれを指して禁煙ファシズムだの何のという反発を見るにつけ、この扱いの違いはどこから来るものなのか不思議でならないのです。


→関連:たばこと酒とクルマの違い(2006.09)

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2007.09.19

感性をコピーできたら。【原題:欲しいのは、愛(AI)?】

前々稿前稿を混合したのち蒸発乾固すると、

他人さまに過ぎた期待なんてしちゃいけない。

というフレーズが析出しました。

そりゃー自分ならぬ他人の集まりor集めてきたもの、どうしても自分の感性とはズレが出てきますよ。


マジメに情報収集ということを考えたとして。

ひと昔前─まだ常時接続が主流じゃなかった頃かな─、『エージェント技術』という言葉が一般向けにも盛んに語られたことがあった、ような気がします。
出張なんかの旅程を考えたらあとはロボットというか人工知能(AI)が自律的に予約を取ってきてくれる、なんて例の覚えが。

ぱらぱら検索してみると"検索エンジンが行う巡回"とか"学習型迷惑メールフィルタ"なんかがエージェントの一種なんだそうですが、
その辺りの技術、『ソーシャルブックマークがノイズだらけで使えん』とかいう問題の回避策としては使えないのでしょうか、あるいは既に有ったりしないのでしょうか。

例えばソーシャルブックマークの新着一覧から、あるいは千の単位で取得してるRSSから、「自分の感性に合う(合いそうな)もの」だけを選んで出してくれる、ような。

普通名詞でいうところの"キーワードマッチ広告"がたまに笑いのタネを提供するように、キーワード(だけ)では多分ダメで、「趣向」や「感性」をエージェント(人工知能)に覚えこませないといけなかったりするのでしょうけど、そのあたりが難しかったりするのでしょうか、全くの門外漢ですが。

「疲れないし愚痴らない"自分のクローン"」(笑)があらかじめ巡回して取捨選択しておいてくれたら、"本体"としては楽になるでしょうね、情報収集だけが目的なら、ですが。

どうしたってどこかに取りこぼしは出るし、第一そんなことをしたら意外性も多様性も犠牲になるわけですけれども。

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2007.09.17

真顔で使うな、笑顔で使え。

もひとつおまけに。
仕事に使うな、娯楽に使え。

『ソーシャルブックマークの人気記事にしょーもないまとめやらが上がってきて使えん』って?

しかしホンマに真剣かつマジメでんなあ。

せやけどなぁ、
オフィスソフト開いてあれこれ仕事をしてる時と違う、ブラウザ開いてあちこち眺めて回るときの、その画面に向かうキモチいうもんを、もう一度確かめられたらどないです?

(自分にとっての)ノイズにいちいち目くじら立てることもないやんか。
タイトルに釣られたなら「釣られたぁー(^^;」って笑うたらええやんか。
違いまっか?

もうちょっと、こう、「心の余裕」ちゅうもんを持ったらどないです


ソーシャルブックマーク等での人気記事であれ、検索結果であれ、「自分にとっての」ノイズ、というのはたぶんいつまでも付いて回るでしょうし、むしろ「それも込みで表示しますよ、この中からの選択はご自分でよろしく」ということではないかという気がしますが。

ましてや「人気記事」や「おすすめ」などというのを見て回るなんて、(何度も書いていますが)圧倒的多数にとっては「趣味」の領域であり「余暇の一部分」でしょう。「不快なものを見た」という不快感は(余暇であるだけに尚更)分からなくはないですが、しかし「ノイズ掴まされた、時間の無駄」などという理屈はそもそも成り立つのかどうか。

元来ノイズのほうが圧倒的に多いことを知っているはずのこの世界で、(ましてや「遊ぼう」とするに当たって)そんなに「精度」を求めるなんて、それはむちゃな要求というものでしょうし、ストレスがたまるばかりですよ、きっと。
と思いますが。

発信することも含めてですが、それは「力んで」「寸暇を惜しんで」するものでしたか?という振り返りというか気持ちの棚卸しというか、そういうことを時々はしておかないと、ヘンな取り込まれ方をしてしまうような、そんな危なさを感じます。


まぁ暗い、ひどい話も有りますから顔の切り替えに困ることもありますけれども、
基本的には『真顔で使うな、笑顔で使え』の一言に尽きると思います。
気楽に見ましょうよ、気楽に。

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2007.09.16

妄想じゃないけど、理想でもないから。

ときどき再確認しておかないといけないこと。

べにぢょのらぶこーる - あなたは私の妄想じゃない

紅を泣かせたり笑わせたりするのは、妄想世界の住人ではなく現実に生きている人間です。

そうだ、念のため確認しとこ。
あなたは私の妄想じゃない・・・よね?

どうかな?(笑)
(少なくともこうしてトラックバック送るまでは)生きている、って意味では妄想じゃないですが、
でももし"理想の読者"を仮想(設定)しているのだとしたら、(皆が皆)そうでもないから。

だからいろいろモメゴトが起こったりするんですね。
誰もがネットでまで不愉快になりたくはないはず、にもかかわらず。

関連→画面ノムコウ(2005.12)

#とはいえ私も結果的には不愉快の一翼を担ったこと多々あるわけでして何かと申し訳ないです>関係の皆さま


……ということを改めて考えたのは結構グサグサとくるものを読んだからでして、多分はじめてヴァナ日記系にトラックバック送るわけですけど、
ChaboのFF11日記+ - 去り行く人たちへ

なぜ団体行動しなければならないの?
なぜ毎週決まった時間拘束されなければならないの?
(中略)
なぜゲームで愚痴を言わなければならないの?
なぜ人間関係に巻き込まれなければならないの?
(中略)
なぜ義務を負わなければならないの?
なぜゲームしているのに楽しくないの?
なぜ苦しいの?

「つよくなる」ために、人と人とで一緒にしなきゃならないことが多すぎるから。
自分ではない、誰かと。

楽しいゲームって何だ? と、改めて問います。
上で「なぜ」に載っているものは、全て強制されてやっていることです。あなたが自発的にやっていることじゃない。
うーん。
「つよくなる」ため、「地位を上げる」(レベルやら装備やらミッション進行やら全部含めて)ために、その"制約"のなかに自ら入っていった部分もあるのではないかと。

「みんなで」すること、だから、誰かの理想そのものであってはいけない。
みんなそれぞれに不満が残って、但しその大きさを「できるだけ平等に」「できるだけ小さく」しないといけないのだけど。
いつでもどこでも難しい話。
まぁ、でも、「約束ごと」が「縛り」に暗転してしまうのはなぜなんでしょうね……

上を目指せば際限のないあのゲームの中で、「つよくなる」ことと「楽しく─字面通りおもしろおかしく─過ごす」ことが、どこかの時点で両立しえないものになってしまうのだろうな、とは思います。

デスペナがいやで。
必ず何曜日の何時にイン、ということは自信も保証もやりたくもなくて。
(おかげで裏もリンバスも(以下略)未経験ですが)
水色の文字で流れる掛け合いをただ笑って眺めていたかった、それだけを望んで。
誰もいなくなったLSをつけたまま、キツそうなシャウトの飛び交う白門でたたずむだけの今。

なぜ今日も繋ぐのかって?
「次の何か」が見つからないから、かな・・・。
(止めてから探すのはリスクだし(苦笑))

「次の何か」でも、繰り返すことになるとは思うのだけど。
たとえそれがネットの外であっても。
「誰かと何かをする」、かぎり。


……見えない自由が欲しくて
届かぬ文字を打ちまくる
あるべき居場所を教えておくれよ……

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2007.09.15

スタートラインに立てなくて

しかしたてつづけに言及を断られて凹んでるときに限って言及したい話が3つも4つも引っ掛かってくるなんてなんという皮肉よ。


さて。
novtan別館 - アクセス数

読んでもらいたいってのが目的で書いている人でアクセス「数」そのものを求めている人なんているのかな?呼び込むために注目を集めるエントリを書くことはあってもいいと思うけど、そのエントリが自分の書いて伝えたいことに関連していないと目的のものは読んでもらえないわけで。
そのへんのことって、みんなどう考えているのかな。

いやぁ、いくらメインテーマに関係してたって文中リンク張りまくったって「他のもの」はクリックしてくれないし(苦笑)
それはともかく。

このあたりのことはかつても何度か書いたなと管理画面から記事一覧を眺めつつ。

とりあえず代表→ひとつの直接の反応までに…(2006.03)


何度も何度も繰り返し『書けども書けども伝わらない(どころか読まれない(以前に見られない))のが現実』と書いてきました。
『読まれてナンボ』とも何度も書いてきましたが、「読まれたのかどうか」というのはほとんど確認のしようがないわけで。
直接測定できないそれの"計測可能な代用特性として"アクセス数というのが基準になったり目標になったりというのはあるかもしれません。

望ましくは(読んで何かを思った結果としての)反応をもらえること──さらに好ましくは面子が完全固定ではなくちょっとずつ顔ぶれが違うこと──ですが、
見た(アクセスした)ひとの何%が読んでくれて、そのまた何%に(反応するほどに)何かを思ってもらえるのだろう、ということの逆算からも、(ある程度の、かつ恒常的な)アクセスというのは目標などではなくそれで「やっとスタートラインに立てた」ということになるのだろうな、とも思っています。


この年末で丸4年。これで450エントリ目。
いまだスタートラインに立つことも能わず。


だから、
ここ数日内でいくつか見かけた『ブログ/ネットは目的じゃない、手段だ』論。
……あのね。
書いても伝わりもしないものが手段になんかなりようがないじゃないですか。
伝わる(どころか(以下同文))かも分からないうちからブログを「手段」になんて定めちゃいけない。
そう、思います。

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2007.09.14

これもまた いわゆる一つの ミスマッチ?

某所に届いたはずのトラックバックが消されていたことにさっき気付いてすこし落ち込んだTristarです。こんばんは。
……よほど気に障ったのでしょう。悪いことをしました。


さて。
"はてな村のモメゴト"にココログから言及するのはポリシーとしてやりたくないので固有名詞には一切触れないかたちで言及しますが;

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070913/1189688136

読み手と書き手は同じ地平に立っているし、「文句を言うな」とも言ってはならない。

べつにそう限定することもないんじゃないかなぁ、と。

主人と読者で|読者同士で|みんなで(2006.04)より運営者と読者の関係図を再掲します(ただし図の示す意味あいはちょっと違うかも)が:
あくまで「運営者の下に集まりし読者」という関係を目指すのも、

読み手も書き手も同じ輪の中で、というのを目指すのも、

志向としてはどっちも「あり」なんじゃないかなぁ、と思います。

まぁ、だから、
運営者(ブログ主)は前者のかたちにしたいのに読み手に後者を求められて、とか、
逆に後者を志向しているのに読者には前者みたいな扱いを受けて、とか、
そんなミスマッチが引き起こす悲喜劇みたいなのはそこかしこに転がっているのかもしれません。

ま、ある程度の反応をコンスタントに貰えるひとたちの"贅沢な"悩みなんでしょうけれどね、……どっちにしたって私なんかにははるか雲の上の話でして。

ということでもう一点反応:

ウエブの世界に於いてはどんな場所にどのような形で書かれようとそしてそれが誰が書こうと価値は同一である。同一でなければならない。

理想かもしれないけれど現実には
前に書いた→続・「個性の実力」─測れないけど、なにかがちがう。(2007.05)
結果的に、のみならず、見つけて/見てもらえるかどうか(読んで、ではないことに注意!)というスタート地点から等価ではないのだから。

ここからは言及先の話とはずれますが、よくある「コメント欄で文句書いてないで自分のブログ作ってトラックバックすればいいのに」なんてボヤキ?を見かけると、たまに「それはあんたら"勝ち組"の上から目線でっせ」とか思ってしまうんですよ。誰もがあんた(達)のブログほどに読まれるわけじゃないんだ、と(だからって人さまのブログを"汚し"ていい理由には勿論なりませんけど)。

関連→文句の深層(2007.09)

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2007.09.11

良くも悪くも瞬間風速

『何かの(刺激的な)ニュースに脊髄反射で反応して、(見方を覆すような)続報が出ても知らん顔(がまかり通る雰囲気)ってのはどうにかならんのか』というあたりのこと。
2日迷って直接言及しないことにしたのでこんな表現。


リアルならスポーツ紙やタブロイド紙やゴシップ週刊誌なんかの見出しだけ見て真に受けるひと、ってのが一定数居るように、大して変わりばえの無い世界と化したネットにおいてもそういった脊髄反射はある程度でてくるのが道理でしょう。

ただ、"脊髄反射"である分、それぞれの記憶に留まる時間も相当に短いのではないかと想像するのですが。続報が出た頃には反応したことすら覚えていない……ことはないかもしれませんが、次の話題に"走っていった"あとなんじゃないかと。

リアルよりも情報の量は多くて流速も速いだけ、反応(の大きさも含めて)の記憶が薄れるのもリアルよりは格段に早いのではないかと思うんですね。まさに突風、瞬間風速のようなもので。


(叩かれる)当事者が見ればその反応の多さに屈辱と怒りで卒倒するかもしれませんし、それを『犠牲が出ますよね』の一言でさらっと流すような言説は生理的に受け付けませんけれども、但し『瞬間風速でしかない』ことが救いにはなると思いますし、逆にほめる場合でも『瞬間風速でしかない』ところがネットの限界なのではないかと思っています。


関連:
真に受けすぎだと思うよ。(2007.03)
真に受けすぎだと思うよ:その2。(2007.08)

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2007.09.05

文句の深層

『アマチュア』の綴りが[amateur]であることを、
304 Not Modified: アマチュア意識の固定リンクURLで知りました。
ひとつ勉強になりました。

さて。

ここは、インターネット。
誰もが情報を発信できる場。
理想を、相手に求める場所じゃない。
「そこは違う」「私ならこうするのに」 そう思ったら、自分でやればいい。
そして、それができる場所だ。

正論、なんですけどね。

自分がやってもね、伝わらないんですよ。
少なくとも、あなたほどには。


発端?である個人ニュースサイトの公平性(はてな匿名ダイアリー)に、

これがごくマイナーなサイトだったら、(中略)誰も何も言わないだろう。

とありますが、
人気が出たら文句も来ちゃって、というときの文句の深層は、
「その論旨や書き方やスタイルが多くの共感を得たりありがたがられたりする」、そのことに対しての悔しさ腹立たしさ、であったりするのかもしれません。
そういう意味では相手(管理人)に文句をつけるのは確かに筋違いだろうと思うのです。異議をとなえるべきはそれに共感したりありがたがったりする(向こうの)読者に対して、だろうと。

とは思うのですけどね……。


声(影響力)の大きいあなたから伝えてほしいことがあるんだ(だって私がいくら書けども伝わり、どころか見られもしない現実があるのだから)、という願いも「文句」には込められていたりするのかもしれません。

つまり、わたしがそう思うときがある、ということです。はい。

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2007.09.04

電子は紙より燃えやすい。

誰かキャッチコピーとして使ってくれませんか(笑)
ネットでなにかを書くときの戒めとして。


ニュース雑誌なんかを読んでいると「これ、もしちょっと名の通ったひとがブログでおんなじこと書いたとしたら炎上必至やでぇ」という感想を持つことがちょくちょくありまして、そんなことを考えてしまいました。
ニュアンスや内容に自分が同意するしないより、そっち方面の感想が先に浮かぶ、ってのが何かよろしくない気もしますが。

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