楽園を見つけし者、楽園を追われし者
結局は「※個人差があります。」の一言に尽きるのかなと思うと救われないような気もするし("信心"次第で)救われるような気もするし(苦笑)。
北の大地から送る物欲日記 - 信じた行動が実感に繋がったとき:
上述の行動が必ずしも自分が期待したどおりのアクセス数増加に結びつくか?と言われたら、そうならない場合も多々ある、という答えになります。
ですよね、というか、
誰かの実感はあくまで誰かの実感、であって。
界隈にはそんな"自分が未だ到達できない境地"をさも一般論のように書いた「希望のことば」があふれていますから、そうじゃない場合も多々あるんだよと、"一般論"とまではいえないんだよと、ただそれを伝えたいだけなんですけどね。
……まぁ、「書けども伝わらない(どころか(略))絶望」がそんなに簡単に伝わったらまさに矛盾なわけで(笑)、今回も伝わらなかった、という証拠が積み重なるのは、ある意味(悲しむべきことではなくて)そうでないと困るともいえるわけですが。
読まれてナンボ、と思っていて、
でも「ウケ狙いで」「思ってもいない事」は書けなくて、
自然体でやっていくしかなくて。
それでいて
私の場合は、いいタイミングで「信じ続けたから実感を持てるようになった」「実感を持てたから信じるようになった」がループする状態に入れた
という実感が持てる人と、そこにたどり着けずに悶々としている(もしくは諦めた)人と、どちらがどの程度存在するのでしょうか?
その真の数値を知りたいと思う。
私が分布のどのあたりに位置するのかを。
ただ、同じようなアクセスや反応やその比率やらを前にしてどういう実感を持つかというのも人それぞれではあるのかも。
たった一回の経験で実感出来、信じる事が出来た、という事かな。
……贈り物ってたまにしか貰えないから、その分嬉しさが大きいのかもね(笑)。
前にも何回か会話したような気がしますが、このあたりの感覚は出自、といえば誤解されるかもですが、基準をどこに置くかによって変わってくるものなのかな、と。
基準を、かつての"ホームページ付設の掲示板(または連絡フォーム)"のことを思えば、(この反応の多さは)楽園に思えるかもしれませんね。
わたしはどうしても(ニフティの)フォーラム(の黄金期)を基準にするから。
なにかを書けば、何らかの反応──しかも一言の相づちや罵倒ではない、文章の体を成している──への期待値というのはものずごく高かった。そりゃ向こうでだってそれ専用の場所に書いた自己紹介を捨て置かれたことはあるけれど、平均して期待値5割は見て良かったと思うし。
そういう「場の持つ力」から放り出されて、"ピン芸人"として(って芸人じゃないけど)ネットに立ち向かっていかねばならない辛さ寂しさ。
それを、私は感じるから。
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