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2007.11.21

弔うこともなく、ただ前に進むのみなり。

まぁココログなんですし、ソーシャルブックマークについて、の折には、たまにはニフティクリップのことも思い出してあげてください(^^;、というのはともかく。

ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 推奨してるわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、ということなんです。

自分のサイトはブックマークされない機能があれば、とりあえずはてブが集める読者からは、そのブログが期待する良質な読者も含めて疎外されてしまうかわりに不快さは消えるということですね。これは等価交換になるなと思うんですね。そういうアイデアです。でも、本当は、ブロガーとコメンターの個々人の問題として、時とともに成熟していくのがいいと思うんですけどね。

『時とともに成熟』する前に斃れるひとも出てきますしね。
ソーシャルブックマークにしろ、広くはネットのオープンさにしろ、
釈然としない部分というか、いろいろ列挙していくと功罪相半ば、ということになるのかな、とは思うのですけれど。

しかし。
【安全はすべてに優先する】世界であれば、功罪相半ばであるなら罪の部分を重くみることもあるでしょうけれど。
【たとえ100のデメリットが分かっていても、1つのメリット(の、それも可能性)があれば前を向いて突き進むのが正義】の"アタラシイセカイ"のひとつですから、ネットは。
(それが一定程度の真実を含むにせよ)フィクションであれノンフィクションであれ討たれるべき悪の親玉の台詞と相場が決まっているはずの「進化には犠牲が伴う」という言葉をさらりと言ってのけるひとに熱狂的な支持が集まったりする世界ですから。
(そりゃ別に「その台詞」への支持じゃないでしょうけど、そういう心性と分かっても支持するんでしょ?)
そんな世界で、ましてや功罪相半ば程度のものに対して、仕組みとして"罪"の部分をどうにかする、ようなものが実装されることは「まず期待できない」と考えて間違いないのではないかと。


たとえば漁港には魚の、あるいは研究施設には実験動物の、供養塔や慰霊碑があるような"日本の心性"からすれば、(ましてや人であるところの)斃れし者というか敗走兵というかそういう存在に気持ちが向かないのは"みんな"ものすごく違和感があってしかるべきだと思うのですが、どうもそうではないみたいなので……

是非も善悪もなく、適応できる者しか残られへんねん、釈然とせえへんでもそういう世界なんやからしゃーないやん、と、そう考えるよりほかないのではないでしょうか、少なくとも客観的には。

だからといって個々人が開き直っていいのかどうかは、別の話ですけど。

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コメント

Tristarさん、お久しぶりです。トラックバック、どうもです。ニフティクリップの件は了解です(^^;

私のブログに、いちおうニフティ愛の証として「マイニフィティで読む」をつけてるんですけど、あんまり効果ないみたいです。私のような新規参入(といってももう半年ですが)組は、ニフティといえばココセレブのイメージなんですよね。つまり、あんまりイメージよくないと。まあ、それはそれとして。

あのエントリは誤解されやすかったみたいです。それと、アタラシセカイのくだりはなるほどなあと思いました。私もソフトアタラシセカイな人かもですが、たぶんこれだけネットが大衆化してきたらそうも言ってられないかもとも思ったりします。Tristarさんの「娯楽の領域」ですね。

実名匿名のときと同じですけど、私的には原理対原理より、等価交換のバランスで考えたいなあという気持ちはありますね。それと心情的な部分では、実名匿名のときにもあった中途半端な知的マッチョ発言がやだなということもあります。

等価交換なんだしさ、そこはスルーするなりしてあきらめなはれ的な。それがでけへんのやったら、こういう機能使ってみたらどないですか、というような、調停案ですわ。でも、話題が微妙な問題だったので、伝わりにくかったです。

投稿: mb101bold | 2007.11.22 15:34

お久しゅうございます。

なんらかの「可能性を制限する技術」に対する(やや条件反射的な)拒否反応、のようなものがこの世界の底流にはあるのかもしれません。
それを踏まえた上での「気持ちは分かるけど…」という反応、が多かったように私には思えましたが。
だから「そう言いたくなる気持ち」は伝わっているのではないでしょうか、それに皆さん「読んで思うところがあった」からこそブックマークコメントその他言及含めあれだけの反応を頂けているわけですし。

マクロで見ると、あるいは個々人単位でも長ーい目で見ると等価交換になっているかもしれませんが、「個人のいま」を切り取ればほとんどにおいて結構なアンバランスになっているような気もしますがどうでしょうか。
「書き甲斐」を感じられるのはメリットのほうが卓越してる時期だからであって、ということですね。

いつも「可能性に目を輝かせる」言説ばかりが目立つ/ウケるのにはそういう事情があるのかもしれません。

投稿: Tristar@管理人 | 2007.11.22 20:49

なんらかの「可能性を制限する技術」とか言説に対する拒否反応は、いつもと違う急激なPVの上昇の動向と最初に付きはじめたコメントの言葉づかいで感じました。でも、いろいろやりとりをしたり、言及をいただいたりして、Tristarさんのおっしゃる通り、私の「そう言いたくなる気持ち」は伝わったのかもしれません。

「個人のいま」におけるアンバランスさというのは、ブログというツールから来るのかなと思ったりもします。私が根拠にしてる不特定多数に届けられる可能性を手にするというコインの表は、可能性にすぎませんので、届く約束はされていませんし。

やはり、ブログはパブリッシングツールなんでしょうね。パブリッシングである限り、書き手は不特定多数に対峙しなきゃなりませんから。その意味で、ブログの本質をいちばん体現しているのは、セレブに力を入れているココログのような気がします。

「可能性に目を輝かせる」言説だけではない何かは、読み手がある程度特定されないと成り立たないのかもしれません。それがある人にとってはmixi、ある人にとってははてな村、そして、今で言えばTwitterなんでしょうけど。

Tristarさんが時々言及されている「ニフ者」という言葉、それは、つまりはフォーラムが持っていた場というかツールから来る思考のあり方、コミュニケーションのあり方ではないかなと、フォーラムをまったく知らない私はいつも読ませていただいております。ツールとか場は思考を規定するところがありますね。

投稿: mb101bold | 2007.11.22 22:24

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