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2007.11.29

濃い話のある薄い世界で

ブログがどうの、よりはるか以前、パソコン通信の時代から。
「ネットで発信する」手段を手に入れたことで、
ありとあらゆるジャンルにおいて『濃い話』が出来るようになりました。

でも、発信手順がどんどんどんどん手軽になり、人が増えてゆくことで、
『全体的な』方向性とか特徴とか、そういったものは「薄れてゆく」というか、捉えどころがなくなってきました。

これからもっと「ネットで発信する」ことが「普通のこと」になるのなら、
全体としてのベクトルはもっともっと薄まってゆくよりほかありません。


……『意見をまとめてヨノナカを動かそう』ですって?

「ブログ限界論」で語られなかったこといろいろ - GIGAZINE

現在の日本のブログは現実世界、特に「政治」に対して多大な影響を与えるレベルには到達していません。

薄まりゆくしかないこの世界で、
すべてが娯楽とされて消費されるこの世界で、
まだその方向を夢見ますか。


本当にそういうツールとして使いたかったのであれば。
せめてもっと初期の、『濃かった』時代にいくつも実例を作っておけば。

はるかに濃かったパソコン通信時代ですら成しえなかった『ヨノナカ──政治・社会方面のことですよね──を動かす』などということが、
これだけ薄くなった今、
そしてもっと薄くなるしかない未来に、
起こり得るものか。

……否、あってたまるか。


正直、そう思っています。

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2007.11.21

弔うこともなく、ただ前に進むのみなり。

まぁココログなんですし、ソーシャルブックマークについて、の折には、たまにはニフティクリップのことも思い出してあげてください(^^;、というのはともかく。

ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 推奨してるわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、ということなんです。

自分のサイトはブックマークされない機能があれば、とりあえずはてブが集める読者からは、そのブログが期待する良質な読者も含めて疎外されてしまうかわりに不快さは消えるということですね。これは等価交換になるなと思うんですね。そういうアイデアです。でも、本当は、ブロガーとコメンターの個々人の問題として、時とともに成熟していくのがいいと思うんですけどね。

『時とともに成熟』する前に斃れるひとも出てきますしね。
ソーシャルブックマークにしろ、広くはネットのオープンさにしろ、
釈然としない部分というか、いろいろ列挙していくと功罪相半ば、ということになるのかな、とは思うのですけれど。

しかし。
【安全はすべてに優先する】世界であれば、功罪相半ばであるなら罪の部分を重くみることもあるでしょうけれど。
【たとえ100のデメリットが分かっていても、1つのメリット(の、それも可能性)があれば前を向いて突き進むのが正義】の"アタラシイセカイ"のひとつですから、ネットは。
(それが一定程度の真実を含むにせよ)フィクションであれノンフィクションであれ討たれるべき悪の親玉の台詞と相場が決まっているはずの「進化には犠牲が伴う」という言葉をさらりと言ってのけるひとに熱狂的な支持が集まったりする世界ですから。
(そりゃ別に「その台詞」への支持じゃないでしょうけど、そういう心性と分かっても支持するんでしょ?)
そんな世界で、ましてや功罪相半ば程度のものに対して、仕組みとして"罪"の部分をどうにかする、ようなものが実装されることは「まず期待できない」と考えて間違いないのではないかと。


たとえば漁港には魚の、あるいは研究施設には実験動物の、供養塔や慰霊碑があるような"日本の心性"からすれば、(ましてや人であるところの)斃れし者というか敗走兵というかそういう存在に気持ちが向かないのは"みんな"ものすごく違和感があってしかるべきだと思うのですが、どうもそうではないみたいなので……

是非も善悪もなく、適応できる者しか残られへんねん、釈然とせえへんでもそういう世界なんやからしゃーないやん、と、そう考えるよりほかないのではないでしょうか、少なくとも客観的には。

だからといって個々人が開き直っていいのかどうかは、別の話ですけど。

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2007.11.18

賑わう場にはバトルもあって、バトルもあるから賑わって。

因果のループ。または悪循環。ただし必要悪かも。

なんで文章書くだけなのに、殺すの殺されるの、命のやり取りが出てくるのだろう? - どんなジレンマ

不毛な衝突も繰り返されることで、「こういう文章を書く時には、こういうリスクが生じる」と各ユーザーが経験値をためられるのではないかと、少しだけ期待している。でも、案外熱しやすく冷めやすいから、歴史は繰り返されるかもしれない。パソコン通信時代からのユーザーさんは、「あー、どこかで見たことのある風景」などと思っているかもしれない。思わないかもしれない。

『パソコン通信時代からのユーザー』です。こんばんは。
一応バトルの当事者経験もあります。未だにその(バトった)テーマ周辺の話は読まずにおれません(決して発言はしませんが)。

『どこかで見たことのある風景』、という感想はあります。何百回の繰り返し。
『経験値』は……人によっては蓄積があるかもしれません((火の粉が降ってきたときに)腕まくりするか受け流すかは別として)。
話はそれますが、腕まくりする人、「名うてのバトラー」として名を馳せる人のコミュニケーション経歴をみると、キャリア2~4年くらいのところに分布のピークが来るんじゃないかとか、根拠も何もないですが(^^;。
その先、15年選手とか何人か知っていますが、概して受け流し能力に長けた感があります。
もちろん例外もありますし、単に歳食って丸くなっただけ(笑)だったりして、ネットキャリアとは関係ないかもしれませんが。

それはともかく。
経験値を得たとしても、あくまで当事者「その人」に属するもので、「場」や「仕組み」が何か学習効果を得るかといえばそんなことはないというのが経験的な感想です。
メンバーはうつり変わりますし。去っていった人の声は見えないですし。
それに、「前だけを見てひたすら突き進む」のが"ネットの正義"みたいなところ、あるじゃないですか。

あと、引用元タイトル周辺の話についてほのめかしたつもりの関連→ウェブ時代の憂鬱(2007.11)


誰もが、自分の能力と責任の範囲で好きなことを書き、できるだけ制限を受けず、現実社会での暴力や差別や偏見などを助長せずに済む方法はないものだろうか。blog界隈が成熟して、一つステップアップする上で、避けて通れない問題だと

「集う人」が『成熟して、一つステップアップ』しないと、場だけが成長はしないですよ(^^;。
上で書いたように、人のうつり変わりは続いているわけで。
まぁ、だから、ある意味ひどい言い方ですが、縮小均衡に転じたときにその希望はあるかな、とは思っていますが。

個人的には【ネットではネットのことを/ネットのことはネットで】を大原則にするだけで随分"不幸"は減るだろうと、そうするよりほかはないと思うのですが、みなさん、それじゃダメなんですよね、リアル世間の世事のアレコレも言いたいんですよね……。


ほんとうはバトルを「必要悪」だなんて言いたくはないのですが、傷を負った人に「繁栄に必要な犠牲でした」なんて言えないですからね。
でもねぇ、バトルと賑わいってわりと正比例するのよねぇ……
「たまにはバトルもあるくらいに賑わっている場」ならROMしてても充分楽しめるし、
「平穏なれども閑古鳥」だと、がんばって参加してても・・・
(ホントに真剣な情報交換で成り立っているところは別として、"なんでもあり"のコミュニケーションで成り立っている場は、ですよ)
ジレンマ(苦笑)。

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2007.11.14

狂歌

既に書いたつもりで過去ログを検索しても引っ掛からなかったので。まぁ再掲でも気にしない。

世の中に たえてブログの なかりせば
人の心は のどけからまし

言うまでもなく、

世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし
(在原業平:古今和歌集)

をもじった、

世の中にたえて女のなかりせばをとこの心はのどけからまし
(大田蜀山人)

のさらにパロディ。


……続きを詠む?(2006.04)



反論──"希望"を詠んだ狂歌──があったらトラックバックしてみやがれ戴ければ幸いに存じます。

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2007.11.13

『ネット』と『生きる糧』との距離

「いんたーねっとのあかうんと」を取ってから、この年末でまる11年になります。
実際にはコミュニケーション目的としての場は長い間(インターネットには出ずに)パソコン通信の中に留まっていましたが、当時から今に至るまで、
「発信すること(および相互コミュニケーション)を、現在もしくは将来の(経済的な意味での)"生きる糧"につなげる」ことを考えませんでした。
……どころか、相当注意深く忌避し続けてきました。余暇娯楽の領分を踏み外してはならないと思い続けてきました。



ということをなぜわざわざ書いたかというと。

梅田望夫・著『ウェブ時代をゆく』(ちくま新書:2007)を買って、読んだのです。
が、
自分でも驚くほどに心を【動かされなかった】のです。
それでは777円出した自分が悔しい(笑)ですが、でも「まぁそういう考えもあるんだろうね」のひとことを心の中から搾り出すのが精一杯だったのです。
『ウェブ進化論』『~人間論』ではそれなりに考えるところはあったのに。
(一応エビデンス→光と、闇と、「その他大勢」(2006.12))


どうしてだろう?と考えて。
自分の中に「ネットで発信することを、現在もしくは将来の生きる糧につなげる」思いが皆無だから、ということに行き着いたのです。
(ブログに広告を貼るとかいう話ではなくて、書く中身で(生業まではいかなくとも)稼ぎにつなげる発想が、という意味で)

だから、まぁ、「『ネット』と『生きる糧』との距離」が近い/近づけたい層には示唆に富む話なんだろうな、と……

他人事では居られなくなるのでしょうか。否応なく。

距離を近づけた生き方をすれば(それこそひとつ前のエントリに書いたような)傷だ何だというようなことからは遠くなる(そんなことに構うヒマはなくなるだろうからね)のかもしれませんが、別の息苦しさが支配するようになると思うんですよね……。

願わくば距離を離したままで安らかにネット人生を全うせんことを。


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2007.11.11

ウェブ時代の憂鬱

ブログ(には限定されませんが、"しらないひと"とのネットコミュニケーション)において。

稀に「書いて良かった」思いを経験することはあるかもしれません。
逆に「書かなくて良かった」思いは誰しも経験があるのではないかと。

「書いたがゆえに」不幸に見舞われた例はそこらじゅうにあるでしょう。
しかし、
「書かなかったがゆえに」不幸に見舞われる、ことはありうるでしょうか?


何をどのように書いても誰かが、もしくは、自他ともに傷つくかもしれない、ことを分かっていながら、
それでも止め(られ)ない、というのは。
たとえば3年11ヶ月・これを含めて473ものエントリを残している私など。


他人事や他責のニュアンスではなく、その一構成員として。

"総表現時代"のなんと罪作りなことよ。

それでも「(冒険)しなかった後悔」よりも「した後悔」のほうが尊ばれるべきでしょうか、
「(失敗を恐れて)しなかった」ことより「やって失敗した」ことのほうを誉めよと申されますか、
(成功した)ベンチャー系のひとたちや自己啓発系(笑)のひとたちはそうおっしゃいますが。

自分が傷つくのは「三日坊主にななかった自分」の因果として。
相手もブロガーであれば「お互い様」の四文字に逃げこむこともできるけれども。
全くのROM、偶然の訪問者だったら……?


答え──というか弁明──は見つからないけど。
少なくとも開き直ることだけはしてはいけない、ような気がします。

だから、やはり、私たちは『反面教師』であるべきなんだ、と思います。

そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2006.05)

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2007.11.07

トラックバックURLから推測したココログ総投稿数の推移(1700万編)

※あくまで「トラックバックURL末尾の数字が通し番号」と仮定して

サービス開始:2003.12.02


100万:2004.07.20(頃と思われる):約230日
200万:2004.11.18:約120日
300万:2005.02.19:93日
400万:2005.05.05:75日
500万:2005.07.17:73日
600万:2005.09.18:63日
700万:2005.11.09:52日
800万:2006.01.04:56日
900万:2006.03.08:63日
1000万:2006.05.10:63日
1100万:2006.07.18:69日
1200万:2006.09.22:66日
1300万:2006.12.09:78日
1400万:2007.02.21:74日
1500万:2007.05.08:76日
1600万:2007.08.04:88日

1700万:2007.11.07:95日

(末尾の日数は各100万区間に要した日数)
推移グラフ

*グラフの末尾数字サンプルは自分の全投稿(同一日に複数投稿した場合は最後のもの)

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2007.11.06

「つまらなくないですか?」って現役さんへ問いかけたら、そりゃ怒られるでしょうけど。

震源地らしきもの:
RTCカンファレンス - イベント案内

トラックバックスパムや悪質商法を促すようなブログ、SEO対策だけのために自動生成されるブログなどが増加し、ブログ本来のリンク関係や個人発言の信頼性、おもしろさがどんどんと失われて行きました。こうして、いつのまにか日本のブログは「なんだかつまらない」ものに成り下がっているように見受けられます。

反論エントリへのリンクが多数あったところ→|M|E|T|A|M|i|X| 「ブログはつまらない」発言で大騒動!?(の【関連URL】の段)


現役で"ブログしてる"ということは楽しいから続けて(続いて)いるのであって(読むだけも含めて)、そりゃ現役さんは(大げさに言えば存在を賭けて)怒りますって。ある人は炎上の危機を、ある人は逆に無反応の日々に「打ち勝って」「乗り越えて」きたのですから。


ただ……書くのを/読むのを止めてしまったひと、というのもまた多数おられるわけで、その人たちにとっては「つまらなくなった」というのは「わが意を得たり」ということなのかもしれません。

基本的に消えた(消された)人の声は見えない世界ですが、そこをなんとか、消えていった人たちのその理由を見えるようにして(現役さんと)同じフィールドに並べてみることでわかることがあるのではないかと思うし、というかそうしないと「つまらなくなったか否か」ということに関して(勝ち残った)現役さんの声だけ並べても、なんというか、フェアではないというか。


一こ前で書いた「切なさ」にも通ずるのですが、ひたすら『前へ、次へ』を追い求めて突き進む──過去の"敗走兵"には目もくれず──のがネットの正義なのだろうか、と思うときがあったりもします。

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2007.11.04

その「場」が「楽しい場」であるための条件

暗黙のルールが共有され、かつストレスなく守られている状態にあること。
今はまだそのルールで自然に行動できるメンバー"だけ"で構成されている状態であり、ただし「賑わい」といえる程度にはメンバーが存在すること。
少なくとも自分の関わる範囲において。


直接には見るのも語りかけるのも気楽にできるTwitter - 北の大地から送る物欲日記を読んだのがきっかけですがあいにくそのサービスは使っていませんし一般論として。


その「場」だから、とか、その「場の仕組み」が良かったから、というのも要因ではあるのでしょうが、
「楽しさ」「居心地の良さ」を感じられたのは『"お約束"が共有されていた期間』だったなあと、過去のいくつかを振り返って思います。

「新しい風」が入ってこないとジリ貧になる(またはブレイクせずに終わる)し、
さりとて新陳代謝とともにどうしても雰囲気は変わってしまうもので、
かつて"お約束"で通じていたことに「論理的な説明」を求められたりして(おまけに論理のぶつかり合いに感情まで絡んできて受け入れてもらえなかったりして)。


「心地よい賑わい」(まぁ、自分にとっての、ですが)はいつまでも続かなくて、たぶん心地よさの"有効期間"も(場を移るごとに)短くなっていって。
「その場」を楽しみながらも、「次」へむけていつもアンテナを張っていないといけないような。

そういうものだ、といえばそれまでなのでしょうが、
まぁ、なんか、切ない──というより、"刹那"い──よねぇ、と。

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