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2007.12.11

闘いになるとき

きっかけは、ほんの気軽な気持ちで反応しただけのこと、なのに。

いつしか"己が存在を賭けた闘い"になること、ありませんか?

ブロガーに意見して考えが変えられるなんて思ったら大間違い - novtan別館

まぁ、それはそうなのですが。

「心情」は理解できない、それは仕方ないこと。お互い様だし。
ただし。
「そういう心情のひとが存在すること」自体は、せめてそれだけは(真っ当なものとして)認めてはもらえまいか。
そういう願いが(拒まれて)泥沼になってしまうこと、わりとよくあるかもしれません。

早いものでもう半年ほど経つ、NOV1975さんも私も加わったあの話(の全体を「実名匿名論」の冠名でくくるのはおかしいと今でも思っていますけれど)を例にすれば、『そういう考えもあるだろうけれど、しかし(現実の属性に紐付けられない)匿名の存在も認めてよ』というのが"こちら側"の言い分としてあったのは確かで。

心情はともかく存在まで否定されたら"闘い"にもなってしまうわけで……全否定するヤツの存在は否定しなきゃならん、というか(笑)。


「よのなかにはさまざまなかんがえかたをもったひとがせいかつしているのです」ということを、そんな教科書の棒読みではなく実感するのが"発言の敷居が下がったこと"の結果じゃないですか、その部分は認めてよ(とりあえず非合法でなければ)、といった感じでしょうか。


ムキになるだけその目的からは遠ざかってゆきそうなので不毛といえば不毛なんですが、いろいろ頭を使うことも事実だったりして、たまにはトレーニングに役立っているのかもしれません。
関連→この広い訓練場で(2006.06)

……傷さえ残らなければ、の話ですけれども。

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