それは、「画面に差し出した時間」の中。
たしかに検索ワード/フレーズの履歴を見ていると"ああ、この人は『情報』を求めてうちにたどり着いたんだろうな"というのは結構あって、心の中で"ごめんなさいね"と思うことは多々ありますけれども……
お金をもらうこともないし、お金を払うこともないし、それでも読んでくれる人はいる。それは本当にありがたいことだと思うんだけど、「人生を削りとる覚悟」というものは、依然として、あるいは前以上に重要であり続けている。
うーん。
私も以前には"画面に時間を奪われる"という表現をしたような気もするのですけど、しかし。
真顔で使うな、笑顔で使え。(2007.09)より再掲:
「人気記事」や「おすすめ」などというのを見て回るなんて、(何度も書いていますが)圧倒的多数にとっては「趣味」の領域であり「余暇の一部分」でしょう。「不快なものを見た」という不快感は(余暇であるだけに尚更)分からなくはないですが、しかし「ノイズ掴まされた、時間の無駄」などという理屈はそもそも成り立つのかどうか。
「その無駄をしなかったら有意義に時間を使えた」のかといえばそんなことはないと思うのですよ。きっと別の無駄に費やしてますって(笑)。
「自分には」この(ネット)世界を生活の糧を得るために使おうという気が一切無いからそういう考えになるのかもしれないですが、
あまりに重い決意や覚悟を背負ったりするのは、却ってよろしくないこともあるんじゃないかなぁ、と思うのですね。
だって、逆の立場でいうと。
「人生削って」書いたって軽~くスルーされたりネタにされたりするじゃないですか、そりゃ精神衛生上よろしくないですよ。
→「素通り禁止」の次に来るもの(2007.04)
そういうのもあって、読み書き両方ともに、"ブログする"ということの位置づけは、かなり軽い場所にとどめておくべきじゃないかなぁ、と、私はそう思っています。
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