「話をする」ための、きわどくて繊細なバランスを。
「話」がしたいのも「言いっ放し」がしたいのも分け隔てなく存在しているからなぁ。
(一人の中でも時と話題によって両方ある場合もあるけど)
直接コメントをつけるときには、「この人とは話ができるだろうか」と言うことを過剰なまでに意識する。ましてやメールするだなんて。
そういった一つ一つの積み重ねを必要とせず、ずばーんと切り込める人、というのもいる。ただ、僕はそういう人は現状のウェブではちょっと怖いなあと思ったりする。
でも現状その「怖いなぁ」というひとのほうが多くなりつつありませんか?
それでなくても「なにかを思ったら、どんどん書いてみよう!」ということが推奨される雰囲気の中で。
数撃ちゃ当たるじゃないですが、そういう姿勢から新しいつながりができる可能性も確かにあるわけで、無下に否定的なニュアンスにすることもないのですけど。
あと、「話ができる」相手だったとして、コメントであれトラックバックの送りあいであれ15往復も20往復も続くのかといえば(皆無ではないにしても)ますありえないですよね。せいぜい2~3往復がいいところで。
パソコン通信なら"Re^30:"や40なんて珍しくもなんともなかったというのに、何故?というのは正直よく分かりませんけれども、「ブログ・コミュニケーションの限界」というものも存在しているように思っています。
結局のところ、似た物どうしだけでつるむのも難しいウェブのコミュニティーの中で、極めてきわどいバランスの中で成り立っている関係があって、そのきわどさは果たしてウェブのコミュニケーションとしてキープしなければならないものなのかどうか、を疑問に感じることがある。
『「話」ができる場』であるためには。
話を続けるためには。
その「極めてきわどいバランス」をむしろ死守しないといけない、と思うのです。
それができるのが『ネットワーク・コミュニケーション』ではなかったのですか?という思いがあるのですけれど……。
なんでもかんでもがフラットに混在しすぎていることの弊害なのか、まぁ程遠い現状ではあります。
……そういう「限界」を日々痛感していながら、それでも書くというのは、反応もしたくなるというのは、少なくない人が他人にも(書くことを)薦めようとしたりするというのは……
だいたいにおいて信仰なんてものは疑いはじめた時点で信仰でなくなるはずなんですが、
なぜかこればっかりはいつまでもかすかな可能性を信じたがるんですよね(苦笑)。
| 固定リンク
コメント