無制限に「オープンで」「フラットで」あることの妥当性を再検証すべきだと思いませんか?
「届くべき人」に届かないようなメディア、いや、メディアと言うのさえ白々しい、そういうものの存在意義は皆無と言ってよい。
うん。
ほんとうに届けたければ、書いたことで効力を持たせたければ、こんなところを舞台に選ぶべきではないですね。
→濃い話のある薄い世界で(2007.11)
目的を達したい人、目的を拒絶したい人。
公開の場になにかを書くことは、すなわち「誰かの、もしくは世間の役に立つのが目的」だ、と思っている人からすれば「ただ書きたいから日記を書いてるだけ」という人のことを理解できないのでしょう。もしかしたらその存在すらも。
同じように、「書きたいから書いてる」人からすれば、「役立つべき(だけど役立つことないんだからやめちまえ)」と言われても、一体何のことかも分からないのです。たぶん。
何度も書きますけれども、なにがしか世事に言及したとして、
その是正が実際に成されることを真剣に望んでいるが故の言及なのか、
居酒屋談義のネタ程度に考えてみただけなのか、
一見でそれほどはっきり見分けがつくものでもなくて。
それら、おたがい相容れない考えでつむぎ出された文章が、
このオープンな場に、
このフラットな場に、
見た目で識別できるわけでもなく混在している。
そこが問題だと思いませんか?
だから無用な軋轢が起こるのだと思いませんか?
無制限に「オープンで」「フラットで」あることの妥当性を再検証すべきだと思いませんか?
どうして棲み分けを考えようとしないのですか?
このままだと、目的を達したい人、目的を拒絶したい人、どちらの不満も高まるだけじゃないんですか?
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