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2008.06.26

いちばんタイプした、文字列。

このココログアカウントとパスワードの組み合わせ。

まぁ、自分のブログを管理画面からしか見ないのと、ブラウザにも記憶させずツールも使わず律儀に都度手打ちしているため、ですが。

始めてから今日で1666日。
これで550エントリ目……なのはあまり関係ないけど。

毎日毎日。一日に何度もログインするから。
もしかしたら万の単位に届いているか。
……考えたら異常ですね。いったい何を気にしているのか。


この、今までで、いちばんタイプした、文字列。
"指が覚えた"文字列。

いつかは打たなくなりますが。
まだ、「遠い」いつか、でありますように。

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2008.06.25

冒険者?

そちらにコメントする権限がございませんので、こちらから。

イメージ調査 - ここにいるだれか

みなさんは、「オフ充」と言ったらどんな人をイメージしますか?

「デアイ」や「ジンミャク」目的なれば不純ネット交遊の称号を謹呈するところですが、そうではなさそうなので。


『「オフ充」のイメージ』ですか?
"致命的な打撃をかいくぐってきた奇跡"の体現者、かな。
RPGの冒険者のように、死んでもレイズもらったらおk、で済んでいるような。
それとも不幸のほうが向こうから近づかない、むしろ逃げていくのかしら?


もういちど受動的な変化と成長 - ここにいるだれかを読み返して、それでも思うのですが、
やはり「自分に自信のある」ひと(たち)なんだろうな、という感想を持ってしまいます。
ネットの、だけでない、"生身"の自分に。

その上でいろんな(新しい)ひとたちとオフる、のであれば、冒険精神旺盛なんだろうな、と、そんなイメージです。

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2008.06.15

インターネットで情報収集「以外」をするときに必要なこと

それは、ノイズをノイズ扱いで終わらせないことだと思う。


304 Not Modified: インターネットで情報収集するときに必要なこと

それは、ノイズを許容することだと思う。

おっ、と思ったのですが、ずーっと読んでゆくと、
ノイズは「あってもいいよ、見ない(で済ませる技術がある)から」と読めてしまったのですが、違いますか。
なーんだ、その意味での「許容」かと。
ノイズと切って捨てられる、何度も何度も書いてきましたが、玉石の石として淘汰される圧倒的多数にとっては切ない話であります。

まぁ、情報収集であれば仕方ないとは思います。ましてやせっぱつまってる時にノイズに付き合う暇なんてないですからね。

ただ、そういう除去の技術(個人スキル)って一朝一夕に得られるものではないし、さらに"まじめな用途"に使うには何かと難しくなりつつあるように思いませんか?
それなら"棲み分けて、ノイズの存在自体を減らす"考えもありだと思うのですが。
関連→レベルと多様性は並立しない。さあ、どっちを取る?(2008.06)


そうでなくて、多様性を信奉するのであれば。
ノイズをただのノイズ扱いで終わらせるのは違うんじゃないですか?


別の視点から。というかこっちが本題。

どれだけ(の割合で)「ネットで情報収集」していますか?

ネット歴が長くなれば、そして画面に向かう時間が長くなれば、情報収集なり議論なりで"真顔でネットする"割合は相対的に下がってくるものじゃないですか?
新しい、だけど大して変わりばえのないもう一つの世界で、TVをそうするのと同じように"ダラ見"することの方が多くなりませんか?

せめて、そんなときには。
ノイズ(と思っていたもの)にも何かシグナルが見つかるかもしれません。
あるいは、ノイズの集合体から見えてくるものだってあるでしょう。

ネットの良さはノイズを許容することで広がるのだと思うのだ。

だから、ノイズとして許容するんじゃなくて。
それらにも目を向けて、できればノイズ扱いのままで終わらせないようにしたいし、してほしいんですよ。
せめて、真顔で使っていない時くらいは……

関連→真顔で使うな、笑顔で使え(2007.09)

そうすれば、石として淘汰され続ける──私のような──存在への、せめてもの手向け、じゃなかった、慰めになるような気がするのですが。

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2008.06.12

営業努力か、居場所探しか。

「話」がしたくて。コミュニケーションがほしくて。という前提で。

トラックバックは擬似恋愛の作用をする - オレドコBlog

TBって結局のところ名刺交換みたいなもんなんだと思う。TBが技術者的に考えるのでなくて、営業マン的に考えるべきものだと思う。営業スマイルをしながら、あつかましいのは基本です

うーん……

ビジネスマン向けの教本のようなものによくある営業の「美談」に、
『ずっと面会に応じてくれなくて門前払い、めげずに受付に名刺を置くこと※ヶ月。それが●十枚になったある日、先方から話を聞きたいと連絡があって……』
あとはトントン拍子、といったような"情熱の成功物語"がありますが。

さて、これをネットワークコミュニケーションに応用してうまくいくのかどうか。

「話をしたい」相手(または場)があったとして、
10回そのブログに言及トラックバック撃ち込んでみたり、
30回(SNSの)コミュニティに書き込んでみたり、
(Twitterで)50回@返信してみたり、
それまで一度だって反応もらえなくても。

そんな"営業努力"は「正しいやりかた」なんだろうか?
可能性が開けるんだろうか?


むしろ、
「話がしたい」のに、
3回トラックバックしてみて、
5回コミュに書き込んでみて、
7回@返信してみても反応がもらえないのならば、
"縁がなかった"とあきらめて他を当たるしか無いように思うのです。悲しいけど、認めたくないけど。

自分が本当に居たいクラスタはどこにあるのか - インターネットの真の姿とは

自分があることについて考え、言ったことに対する反応が薄いということはですね、つまり、私が興味あることにその人は興味がないと。
(中略)
それはそれとして、なんというか、自分の考えを深められるような場所、そして仲間が欲しいと思うのである。
そういった場をブログやその他サービスに求めていきたい。

『「安住の地」は、探すものか?自らつくり出すのものか?』ということ。
"営業"的には、つくり出すもんでしょ、ということになるのでしょうし、それが強い/ポジティブな生き方ということになるのでしょうけど、
「心安らげる」場を「がんばって、努力して」作る、というのはニュアンスとして矛盾があるわけで。
ニュアンス的にはやはり「(ここでもなかった…、と)ベソかきながら探し歩く」ものだと思うんですよね(^^;。


私も。
見つけた人を羨みながら
居場所探しの、旅の途中。

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2008.06.11

Garbage-in, garbage-out.

とある印刷物(名前は出せない)で見かけまして。
コンピュータの世界では昔からの格言だそうで。

恥ずかしながら初見でしたのでぐぐってみたら、
『不正確なデータからは不正確な結果しか出てこない』との"意訳"も、
『ゴミばかりインプットしてもゴミしか出てこない』との"直訳"も両方ネットにはあふれておりましたが。

さて。
"Google様がなんとかよりわけてくださる"というWeb2.0の思想とは相当に趣が異なる気がいたしますし、
みなさん──当然私もですよ──自らが行うWebへのインプットに絶大な(質的)自信をお持ちとは思われないのですが、
「自分たちがWebへインプットすること」について標記格言(の直訳)にあてはめてみる議論とかいうのはもしかしてブログではタブーだったりするのでしょうか(^^;、いや自分の観測範囲で見た記憶がないだけなのですが。

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2008.06.08

しかし、ブログって、終わりませんね。


個々の書き手の栄枯盛衰のことではなくて。

今までも、今も、様々な問題やら機能不全やらを抱えながら。
「ブログという世界」も、ブログサービス事業者も、なかなか終わる気配を見せませんね。

そろそろ撤退アナウンスが出てきてもいいのにと書いてから3年近く。
いったい何が(事業的に)魅力なんでしょうね?
事業者はいっぱいあって、しかしユーザー獲得のための消耗戦を戦っているようにも見えず。


パソ通上がりの出自ゆえに始めた最初から手放しで「ブログは素晴らしい」なんて思いたくない部分があって冷笑的なスタンスをがんばって(^^;保ってきたしまだそれは変わらないし、
(自分がアクティブでいられる時間に比べれば)"永遠"だと思っていた場が消える、という経験をしたことで、どこにいても無常観というかついつい終わりの光景を想像しようとするのですが、こうも賑わいが持続するとどうもそれを想像しづらくて、どんどん自分の分が悪くなっていくようで。

……しかし、ブログって、終わりませんね。
ここまで勢いが落ちないのは、予想外でした。

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2008.06.07

後ろ向きの解決が、現実解だと思うので。

これは……

そういえば - finalventの日記

もっとロガーが多く立ち上がって欲しいし、もっとナイーブに読まれるブロガーを守らなくてはいけない。
(中略)ブロガーというものの言論の位置みたいのを裾野から押し上げていくほうがいい。

だから - finalventの日記:

耐性を備えることができない人はコメントやめろ論は、梅田さんが言っているメリットを殺す。それはもったいないよ。
で、じゃ、コメント開くならマッチョたれ、とか、ダンコーガイとか越権さんとかの議論は、ブログ文化を後ろ向きにしていくだけですよ。

おお、なんと!
常々finalventさんが「ブログなんてゴミ」と書いておられたのはツンデレの発露であった、という私の見立てが合っていたようで嬉しく思います。


以上で終わってしまっては引用の範囲を超えますので。


正直なところ、"後ろ向き"の解決でいいと思いますし、現実解としてはそれしかないのではないでしょうか。
烈しい反応への覚悟もないのに無配慮にセンシティブな話をするのはますいでしょ、というのは理屈としておかしいわけではないはずですし、もっと言うと、『「ブログする」こと』自体の敷居をもう一度上げる方向にどうにかもっていくのが不幸の再生産を防ぐ一番の方法ではないのでしょうか(将来への希望ではなく、現実の対処として)。

現実は、それこそ梅田さんが書いているように"圧倒的多数は玉石の石として淘汰され無いと同じ扱いになる"わけでしょう、ナイーブであろうとなかろうと読まれない(どころか見られすらしない)のが大多数じゃないですか、それじゃROMでいるのと[実質的に]変わらないですよね。
んで、たまーに来たと思えば心無い反応だったりするわけで。

そこを踏まえていて、それでもどういうわけか『ナイーブな人and/or話題は「ブログしない」という選択』を提示から外すのは、現実的な視点からするとなんだかなぁ、と思うのが正直な感想です。

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2008.06.05

レベルと多様性は並立しない。さあ、どっちを取る?

レベル、というのは「方向性」とか「濃さ」と言い換えてもいいかもしれません。できればあまり「貴賎」のニュアンスにはとっていただきたくないかも。……自沈しますから(^^;


コミュニケーションの場に、敷居、といいますか、なんらかの制限を課せば、レベルは上がります。
(まぁ、それが議論のレベルか喧嘩のレベルかはたまた馴れ合いのレベルなのかは、それぞれでしょうけれど)
多少は"ノイズ"が除去されますが、裏返せば多様性が損なわれます。

無制限、なんでもあり、にしてしまえば、多様性は確保されますが方向性は定まらなくなるのでレベルは上がりませんし濃くもなりません。それに(個々人にとっての)ノイスは多くなります。

つまりレベルと多様性は並立しません


匿名の/ネガティブな反応を排除したいという要求と、そんな制限を(全体に)課すことへの反発と。

前者はたぶん、(ネットコミュニケーションに)"レベル向上"を求めていて、後者は"多様性が(ネットの)命"と考えているのではなかろうかと、あちこち見ていて思います。

単に『求めているものの違い』の確認であって、どちらがいい悪いということを論じたいわけではないのですが。

ゴミ箱モデル - kokokubeta;

ネットってじつは、ゴミ箱を志向したほうがいいんじゃないか。

多様性を優先するならそれでいいと思うのですが、(主に"レベル重視"派に)それで傷ついたり見過ごせないデメリットが出てきてしまっているのが現実なのではないかと。

ですから、レベルと多様性は並立しないだけではなく、同じフィールドに共生することもできなくなっていると考えるのです。
どちらか一つしか選べないのです。

"多様性"派には残念なことだと思うのですが、
棲み分けということ、もういちど考えましょうよ。

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2008.06.04

誰宛か、って聞かれたら、やはり「誰か」宛でありたいんです。

自分自身が第一、にはなれない。どうしても。
まぁ、だから、ストレスばかり溜まるんですけどね……

『斬(ZAN)』 「自分が書きたい=自分が読みたい」でありたい

「自分が書きたい」だけじゃなくって、そこには「自分が読みたい」が最初から含まれたうえで書いている。そこに意味がある。

うーん。
何かしら「考え」を書くのだとしたら、文章としては疑問形だったりはしますけれど、だけど、自分の中では(ある程度)結論が出た上でのものなんじゃないかと。

だから、「自分は」もう読まなくてもいいんです。自分にとっては書き上げるまでの段階で考えた話だから。


じゃぁ誰に向けているのか、というと、自分のコピー(好ましくは、ミニコピー)という仮想の相手だったりするのですけれど、それはあくまで"他人"であって自分自身ではないんですね。

まぁ、だから。
そんな、ありもしない「誰か」を想定して、「誰か」からの(好ましくは好意的な)反応を唯一のモチベーションにしているから。
反応、どころか読まれも、どころか見られすらしない現実に、もはや怨念と表現できるまでの(笑)未練を募らせるばかりの日々で。
過去エントリへのリンク置きまくったりしてね、そもそもアクセス自体がろくに無いというのにね……


そりゃあ、一年前、二年前に書いたことまで憶えているのは自分以外いないけれど。

それでも、自分自身が第一、にはなれない。どうしても。
「誰か」宛でありたいんです。自分ではない、誰か。

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2008.06.02

ネットではネットのことを/ネットのことはネットで

それを大原則、第一優先順位にするだけで、ずいぶん"事故"は防げると思うのですがね。

「ネット論」や「サイト論」、「ブログ論」というもの。
"知らないだれか"と、相手の属性も出自も関係なく
参加者のだれもが経験者かつ当事者として対等に発言できる、おそらく唯一の話題ではないですか?
その点だけを見ても優先順位を上げる大きな理由になると思いますが。


すこし話はそれますが。
『実際にはほうぼうの"井戸端"や"ろばた"でささやかれているような、ただし「現代道徳からは許されない」世事への感想』を書いたがために炎上する事例が後を絶たない現況に、『"毒抜き"された当たり障りの無い感想だけが溢れるネット社会になりそうで』と憂う向きもおられるようですが、べつに世事を相手にせずとも"毒"や激しい応酬はありうるわけで。

ネットに対してはだれもが経験者かつ当事者ではありますが、皆それぞれに違った経験をお持ちですから。
当然のごとくうんうんと頷くだけではない、モメゴトも罵り合いも十分すぎるほどに起こる余地はあるはずで、『ネットのこと』に限定したからといってそういう"活気"が失われることは決して無いはず。

そして、読み、書き、議論したことをそのまま採り入れるにせよ反面教師とするにせよ、それを反映させることによって実効性を伴うことのできる話題でありましょう、「サイト論」や「ブログ論」というものは。


(リアルに波及しかねない)"事故"は減り、しかしコミュニケーションの"活気"は失われないというのに。
『ネットではネットのことを』と、それを大原則にすべきと、なぜだれも声を大にして言わないの?


裏返し、ネットのことはネットで(解決を)、というのも、まぁ触法事案のようなものは除外するにしても、これも原則とすればいいと思うのですがね。


……という意見のベース:濃い話のある薄い世界で(2007.11)

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