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2008.08.30

繰り返すのは、そして繰り返せるのは、そう簡単には伝わらないから。

それを実体験できた、のも収穫と考えれば。

http://anond.hatelabo.jp/20080830101234(はてな匿名ダイアリー):

伝わらない奴には本当に伝わらない。
最近それを本当とみに感じる。

そりゃそうです。
画面の向こうは自分のコピーならぬ誰か、ですから。
そう簡単には伝わるものじゃないんです。

でもね。
『よのなかにはほんとうにいろいろなひとがいます』ということを、棒読みの知識としてだけではなく実体験として存在を理解できたのだとしたら、それが"ネットすること"の収穫の一つといえるかもしれません。

関連→この広い訓練場で(2006.06)


逆に言えば。

たまには伝わるんですよ。

よく書かれてるじゃないですか、『誰か一人に伝われば』って。
簡単じゃないから分母(アクセス数)を大きくしようとするんです。
"一人に"か"世間に"か、伝わるまでおんなじこと繰り返すんです。繰り返していいんです。

ブログ=繰り言2.0なんです。


……という繰り言でした。

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2008.08.28

ホントに押したことないんです……そんなに珍しいですか?

企業サイトでも、個人サイトでも。
PCでも、ケータイでも。
昔々からあるバナー広告。
今ではブログでもどこでもある、
アマゾンへのリンク、
「by Google」でおなじみのキーワード連動広告。

そういうものに。

"インターネット始めて"以来十余年。
能動的に(つまり、誤操作以外で)クリックしたこと無い、って言ったら存在を否定されかねない勢いで驚かれたわけですが。

……うーん、『全体的に見て』そんなに珍種ですか、おいら。

自身たしかに、いわゆる「嫌儲」──それもかなり厳格な──であるという自覚はあるのですが、
(関連:
画面の枠の中にとどまることを、私は「純粋」と呼びたい。(2008.03)
【毒】一次情報(2006.03))
(そういうのを)「押す気にならない」のは、それだけではない何かがあるような。自分でも説明できないですが(笑)。

まぁ自サイトにそういう類を取り入れておられる方々は他者のサイトにおいても気軽にクリックするのだと推測しますが(ですよね?)、まだまだ大多数であろう"自分がネットで発信なんてしたことない"方々におかれましても、やはり皆さん気軽にクリックされるものなんでしょうか?

いや、"発信なさらない方々"にこうやって問うのもおかしな話ではあるのですが……。

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2008.08.22

なぜか、「ゴミ」は受け継がれなかった。

Garbage-in, garbage-out.(2008.06)

いきなり過去リンクから始めましたが、そういえば、と思いまして。

パソコン通信の昔。
謙譲というか卑下というか、ともかくそういうものの表明として自らの発言に『ゴミ(書き込み)でした~』と書くひとは結構居たんです。ゴミ撒き係を自称するひともいれば"電子屑"なんて変形もあったりして。

そういうニュアンスでの使い方、見なくなったなぁ、と。


いわゆる半径ワンクリックというか自分の感知範囲だけの話なのかと思ってブログ検索などで確認してみたのですが、「ゴミ書き込み」でも「ゴミブログ」でも、"荒らしや怪しいサイトへの誘導を試みるもの"といった他者への非難としての用法しか引っ掛からなくて。
潤滑油的な使い方は本当に廃れてしまっていたらしい……

受け継がれる儀礼、引き継がれない議論。(2008.08)

「いかにも日本文化的な」卑下してみせるやり方、の典型例ではあったと思うのですが、まぁ本心ではないのにそういうことを書くことの善悪は別にすれば。

"泡沫ブログ"などという自称はいくらでもあるので表現の変化が起こっただけといえるのかもしれないのですが、受け継がれなかったのはなんでなんでしょうね?と、冒頭の追記として。

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2008.08.20

安住の地に落ち着けたなら、それは喜ばしいことにございます。

「心地のよい巡回」で"お腹いっぱい"になれるなら、それ以上の何を求める必要がありましょう?

Geekなぺーじ : Webは何故こんなに広くて狭いんだろう

インターネットを狭く感じさせているのは自分自身という事実にあらためて愕然とする

『いつもの場所』で『いつもの顔ぶれ』を見ることができる、それは「安住の地に落ち着けた」と、むしろ喜ばしく考えることだと思うんですね。

関連:
私の居場所はどこですか(2007.08)
営業努力か、居場所探しか。(2008.06)


賛否や書き方の巧拙や丁寧か暴言かとかそういうものとは別の次元で、なんというか、"波長"が合わないこと、って個々人それぞれにあるじゃないですか。
いいこと書いてるはずなんだけどどうも合わないことも、書き方も意見もまったく賛成できないけれどなんか読みたくなる、ってことも。
業務上の要請か何かでそれでもあらゆる視点の意見を読まなくちゃならない、というような動機付けでもなければ、そんなの無理とに読もうとしたって続きませんって。

今はまだ抽出技術も完全ではないからして、「心地よいもの」ばかりを選んだつもりでも何がしかは「異質なもの」も混ざって目の前に出てくるでしょう、"視野を広げる"という目的にはそれで充分だと思います。


満足して落ち着くのは死んだようなもの、というのが暗黙の前提になっているような業界なり思想なりがあるのかどうかは存じませんが、そうでなければ、すくなくとも趣味娯楽の領域での「ネットする」ということであるなら。

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2008.08.18

Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。)

前世紀、はじめて「インターネット」した時の。
家電量販店の体験コーナーで張り付いてた時のように。
「自分のマシン」を手に入れて、電話代気にしながらクリックしてた頃のように。

ちょっとした調べ物のつもりで開いたWikipedia。
文中の/関連の語句を次々開く、Wikipediaサーフィンがとまらない。

元の(調べようとした)対象以外は読んだことを覚えもしないけど。
その場で「ふ-ん」「へぇー」とつぶやくだけのトリビアでしかないけれど。


いつからかブログのトラックバックをたどっていくような読み続けかたをしなくなり。
ニュースサイトなんかをベースにした1クリックの往復で済ませるようになっていたのに。


違いを考えていた。


(知識としての)(辞書的な)「情報」なら時間を忘れて次々読めるけれども。
(個人個人の想いが詰まった)「コラム」はそうは連続して読めない、のかもしれない。
想いが重すぎて。

もちろん辞書──オンライン辞書──だって書いた人の意図や感情はあるだろうけれども、読み手はあくまで「情報」として処理するから。
ブログだと書き手の主観全開そのままで受け取るから。
自分としては。
(それぞれ例外はあるとしても)

前稿に頂いた反応へのお返事も兼ねるのですが、
だから(辞書的な)情報を探すときの結果からはブログは外したかったりします。そのサイトのURLがブログっぽかったら見に行かないことがほとんどですね。私は。
まぁブログだと職場で開くにはカラフルすぎたりする危険が大きいという意味もありますけど(笑)。

実体験として言わんとすることは分かりますし、実際ここもアクセス数からみればキーワード検索結果での訪問が大多数ではあるのですが、
「調べ物をする」のと「話をする」のとで、違うアプローチの仕方があればいいかな、と思います。

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2008.08.14

「来て」ほしい?「読みに来て」ほしい?

がんばって「稼ぐ」気はないけれど、ベースライン(固定客というか)は上がってほしいなぁ、という思いがあるんですよね。

アクセス稼ぎとか気にしないのが気楽 - 北の大地から送る物欲日記

まぁ、そうですね。
収入を期待して、そのためにSEOテクニックがんばって、とにかく「来て」アフィリエイトのリンクをクリックしてほしい……というのでなければ、ね。

「情報」を探してキーワード検索の結果で、というのでは再訪は(たぶん)期待できないし。


そうじゃなくて。
(コラムとして)「読みに来て」ほしいと思うから。
機械(というかプログラム)相手のテクニックで数を稼いでもどうにもならない。
どうにもならないから文字になるのは寂しさばかりなり。

まったくオープンなブログの世界で「読者」の増を望む自体がなんか違う気がしなくもないですが……
あまりにも広大すぎて、あまりにも雑多すぎて。

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2008.08.09

「放送禁止用語です!」

……とネットのカキコミに対して反応してまわるひと、見かけなくなったなと。
自分の巡回範囲でだけ?


今昔比較連発。


パソコン通信なんかだとその役を自認しているかのように必ず噛み付くひと、というのをいくつものフォーラムで見ました。
ここは放送じゃなくて文字メディアちゃうの(リアルでも文字のほうが緩い)、とか、そもそも「禁止」されてへん、みんな(事後の面倒を恐れて)「自主規制」してるだけなんやけど、とか傍観者として思ってましたけど。
まぁ自分に対して言われたことがないのでのこのこ出しゃばりませんでしたが……


ブログにしろ他の何にしろ。
身体的な差別表現は(リアルの)日常会話レベルでも絶滅寸前のような感がありますので(年齢層とか地域によるでしょうが)今後を考えても特にどうということはないでしょうが。

性的な単語は一部伏字を事実上の標準として相当オープンになった感がありますが容易に想像できてしまいます(というか文脈上それ以外想像できないよね)。
あと、音の当て字でいうところの「基地外」ね、そのままひらがなあるいはカタカナで表現するひと、これだけは(昔から増えた、とは言えないけど)一向に減る気配がないような。
なんか(マス)メディアを近づけないための戦術で使ってるんじゃないかと思えるような有名どころもちらほら。あくまで想像ですが。


……そういう単語を目にすると昔の記憶があるからつい反射的に思っちゃうんですね、「これ昔やったら絶対突っ込まれてるでぇ」って。
だけど不思議と見かけないんですね、コメント欄にも、ソーシャルブックマークのコメントなんかにも。

あのひとたちはいまどこに。

「みんなが"場"に投稿する」ところで注意するのと「ひとりひとりのメディア」にご注進してまわるのとでは労力も桁違いというのもあるでしょうし、管理人自らがそう発言しているという違いもあるのでしょうけれども。


是非の判断については逃げます。
ただ、変わったなぁ、と、改めて思った、というだけ。

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2008.08.07

この現実に、悲しくなる。

切ない。切なすぎる。

検/索/除/け/し/て/い/る/ん/で/す/か/ら(from ekken

そんな「努力」(じつは実効性のないことであっても)をしていてさえ見られ、読まれ、話題にされるひとがいて、
「読まれてナンボ」の想いで書いていても読まれも(どころか見られすら!)しないひとがいる、この現実に。

これが……個性の実力というものか……

「インターネットの仕組み/思想」はとりあえず横に置いて、

前者への興味に割くことのできるリソースがあるなら、ぜひともその分を後者への興味に振り向けていただくことはできないものでしょうかと、後者に属する私は切に思う次第であります。


関連:
問題の根本にある皮肉(2005.11)
my turn, your turn − 不平等でミスマッチで運任せの世界で(2007.01)
顕在した危険、潜在したままの可能性。(2008.04)

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2008.08.06

「長文」のカルチャーギャップ

承前

同じく"脈々と受け継がれる日本文化的気遣い"とでもいうべき定型句に「長文失礼します(しました)」なんてのがありますね。

昔々。
今の……えっと……百万分の一!?の、
1200bpsが「高速」であったような時代、しかも通信料も電話代も従量課金でしたから、長文ならタイトルに【長文注意】と入れるのがマナー、と言われたときからの名残なんだろうと思いますが。
(私が実体験してたわけじゃないです、2400bpsは経験してますが)

いや、ね、
そのころでも「長文」っていうのは(1行35~40文字で)30行とか40行こえたらとか、それ以上の場合の話だったんですよ。

それが、今。
ときたまブログのコメント欄とか巨大掲示板(のまとめブログ)とかで見かける「長文失礼(orスマソ)」のフレーズ、たとえば本文10行無かったりするのにそんなこと書いてるの。


あれだけは理解できんなぁ……(^^;;;。
まさしくカルチャーギャップ。


もしかしてあれですか、
ケータイの画面からあふれたら「長文」の範疇に入るわけ?


ということで久々にアバウトミーで質問作ってみた。気が向いたかたはどーぞ。


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2008.08.05

受け継がれる儀礼、引き継がれない議論。

その昔、(無機質な"フォント"で描かれる)メールなのに、「乱文乱筆お許しください」って書いてあった、という笑い話がありましてですね……


さて。
こどものもうそうblog | 管理人様、不適切でしたら削除願います

mixiのコミュとかに、「管理人様、不適切でしたら削除願います」とか書いて、書き込みする人がいるけど、あれは何だろう? 馬鹿だろう。

うわぁ、と思った。
2008年になって(もまだ)こういうことが書かれて、しかもそれが注目されている、ということに。


私もかつて、そんな意味のことを書いたことがあったと思いますねぇ。
『「自分としては」適切だと判断したが、管理人の基準で不適切ならその判断には異議を唱えませんよ』という心情だったかと。

……パソコン通信の全盛期、そして間違いなく前世紀のこと。

そして当時も、引用元のような感想を述べる人は居ました。
だから自分は書くのを止めた、わけではなくて、いちいちそう宣言せずとも管理人に対しては"As you wish,Your Highness"(御意のままに)という姿勢以外にありえないと考えるに至った為ですがそれはともかく。

その前置きに続く本文の性質にもよるでしょうけど、

「不適切なら削除願います」の戦術 - novtan別館

字面だけ見るとバカの表明に見えてしまうようなコミュニケーションってのは日本では良くあること。(中略)自分を卑下することで相手を立てるという日本的美徳感覚の為せるものでしょう。

ということなんじゃないかなぁ?と思いますよ。

だから。
人は移り変わり、場も変わるけど、それをどこかで見かけた誰かが"日本文化"として受け継いで行く。
人は移り変わり、場も変わるから、その是非に対する議論は引き継がれないまま。

10年前に見た話が今も繰り返されているのならきっと10年後も同じ話でモメているのでしょう、
「今のままのWeb」が続いていることはたぶんありえないとしても、進化したはずの何かで。

たぶんほかのこと──無断リンク禁止とか──だってぜんぶ同じなんじゃないかという気がした。


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2008.08.01

Twitterで過ごした100日

今日でTwitterに参加してみて100日が経ちました。日本語版で入った部類でございます。

ポリシーからすると向こうで連投でもして垂れ流すべきものなのですが、ブログなど引用して書きたいこともありまして。

フォローしている内、いわゆるアクティブは10人程度、という狭い世界の見聞ではございますが。


いきなりですが、人はこうまで誤字(まぁ誤変換ですが)に寛容になれるものか、と思いましたですね(笑)。
見た限り指摘されてるような気配は無いし、だから読むのやめようという気にもならないのは不思議なものです。
私がそうであるように、皆さんも読み手側(の脳内)で淡々と補正されていらっしゃるのでしょうか?

『フォローが@返信している相手』が「友だちにだけ公開」モードだと微妙にイラッとしたり(^^;。
ヘンな表現ですが、直接の興味でもないのにそれで友だち申請するのもなぁ、と思って申請したことはない。まぁこれは純粋に自分のスタンスの話で相手が悪いわけじゃない。


さて。
Web上のコミュニケーションほど難しいものはない。
webホームレスという人種
<[はてな匿名ダイアリー]より>

この気持ちはすごく分かる。
まぁ、でも、自分にとっての"憧れの人"は、自分など相手にもされないからこそ憧れが持続できたりなんかして、ね(苦笑)。
それはともかく、そういう有名さんだと、多かれ少なかれ「仲間うち」が出来てしまっていて(その流動性が高い人も居るだろうけど)、なかなかゼロからその"輪"に新規参入、ってのは難しいかもしれなくて。

誰だってスタートは0からって人は言うけど。
営業努力か、居場所探しか。(2008.06)からの再掲ぽくなるけど、
(すでに"輪"ができているところに)返信もらいたくて何十回@返信送ったら叶えられるかって、そうじゃないですよね。
そりゃ憐れみで返事くれることもあるかもしれなくても間違いなく「痛い人」認定ですよね、たいていブロックされるでしょうし。
ほんの数回試してダメなら"憧れの人"のことは諦めるしかなくて。

そんな気持ちもあって@返信も積極的にはなれなくてですね……となると。

Twitterめんどい - novtan別館

不特定多数に対して、まあ、独り言なんだけど、発言して、反応が予期できない

というか、虚空に投げる感がブログ以上に強くなって。

もう「書きたいから書いてるんだ」っていう(自分の場合ブログでもそんなこと思っちゃいないんですが)強がりというか自分への言い訳の耐久度テストみたいな気分になることなきにしもあらず、で。

それでも維持の意地が取り得(?)の私のこと、きっとだらだら続けることになるのでしょうが、さぁ、この先何がありますことやら。


いつもの(?)クジラでないエラー画面が出たのでうれしげに保存&公開。





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