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2008.08.18

Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。)

前世紀、はじめて「インターネット」した時の。
家電量販店の体験コーナーで張り付いてた時のように。
「自分のマシン」を手に入れて、電話代気にしながらクリックしてた頃のように。

ちょっとした調べ物のつもりで開いたWikipedia。
文中の/関連の語句を次々開く、Wikipediaサーフィンがとまらない。

元の(調べようとした)対象以外は読んだことを覚えもしないけど。
その場で「ふ-ん」「へぇー」とつぶやくだけのトリビアでしかないけれど。


いつからかブログのトラックバックをたどっていくような読み続けかたをしなくなり。
ニュースサイトなんかをベースにした1クリックの往復で済ませるようになっていたのに。


違いを考えていた。


(知識としての)(辞書的な)「情報」なら時間を忘れて次々読めるけれども。
(個人個人の想いが詰まった)「コラム」はそうは連続して読めない、のかもしれない。
想いが重すぎて。

もちろん辞書──オンライン辞書──だって書いた人の意図や感情はあるだろうけれども、読み手はあくまで「情報」として処理するから。
ブログだと書き手の主観全開そのままで受け取るから。
自分としては。
(それぞれ例外はあるとしても)

前稿に頂いた反応へのお返事も兼ねるのですが、
だから(辞書的な)情報を探すときの結果からはブログは外したかったりします。そのサイトのURLがブログっぽかったら見に行かないことがほとんどですね。私は。
まぁブログだと職場で開くにはカラフルすぎたりする危険が大きいという意味もありますけど(笑)。

実体験として言わんとすることは分かりますし、実際ここもアクセス数からみればキーワード検索結果での訪問が大多数ではあるのですが、
「調べ物をする」のと「話をする」のとで、違うアプローチの仕方があればいいかな、と思います。

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