亡霊というより、通過儀礼かな。
やっているのはたぶん、(昔のあの人たちではない)新しい人たち、だと思いますので。
2008年現在なのですが、こういう「持論の勝ち負けの付け合い」とか「相手に間違いを認めさせたくて仕方ない」とか「謝罪要求」とかを声高にブログやサイト記事に書いちゃう人なんかを見ると、パソコン通信の亡霊を見た気になって懐かしく思ったりするのじゃ。
あの頃のあの人たちが亡霊となってふたたび目の前に、というのとは違うかもしれませんね。
前にも書いたのですが(賑わう場にはバトルもあって、バトルもあるから賑わって。(2007.11))、たぶん、ちょうど『(ネットでもなければ知り合うこともなかった)さまざまな人たちと「話をする」ことにハマった』頃に、結構な割合で、そういうバトルを「自分のこととして」経験することになってしまう、ような。
そりゃもちろん「10年の長きにわたって最前線で名を轟かせ続ける伝説のネットバトラー」だっていないわけではないでしょうけれど(^^;。
で、我が身に降りかかってきたひとたちのうち、
何割かは絡まれた時点で止めてしまい、
何割かはバトルで燃え尽きて止めてしまい、
"生き残った"何割かがのちにこうして思い出語りをする(笑)。
道徳的には、そして精神衛生上も、そんなバトルなんぞ経験しないのが一番なのですが。
まぁ、でも、そういう経験をすることで、『(わくわくであれまったりであれ)"自分にとって心地よいこと"だけを選んで摂取する(ことの大切さを知る)』ようになるのだと、周りのベテランと思われるひとたちを見ていると、思います。
ただ、「新しい人たち」の流入が続くうちは、この"通過儀礼"としてのバトルも再生産され続けるような。
すこし関連→受け継がれる儀礼、引き継がれない議論。(2008.08)
そして何といっても、今までも今もそうであったように、これからも、
『バトルと運営批判はネットの華』であり続けるでしょうから。
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