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2008.10.30

郷愁と 諦観抱いて サバイバル

わたしだって郷愁の想いは強いですよ、でも、
「今から思えば牧歌的だった、あの頃」には戻れないですよ。

たぶん越権さんには通じないと思うけど - finalventの日記

怒号ワンストップっていうのが問題で、問題というのは、

ワンストップ化によって烏合の衆的な潜在的な暴力になるってことだよ。

うーん。
もし仮に望み通りはてなブックマークから一覧性が消えたとしても、@nifty クリップlivedoor クリップなどが代わりの役目を果たすだけでしょう。あるいは(日本の)公権力の及ばない場所でサービスが展開されるかもしれませんし。
そう思えば、たまたま最大手が、多少は運営も言うことを聞いてくれそうなんでしょ、ならば"泳がせておく"のがまだマシ、かもしれません。今更「しくみを考えついた奴」を高く吊るしたところで、そのしくみは生き続けるでしょうから。

もう、どなたか──そういえばはてなの取締役でしたっけ──が言うように(「時としてそういうコメントに囲まれる可能性のあること」を)「抗えない大きな流れ」として、その中でサバイバルしていくよりほかないのではないですか。
……のどかだった、そして期待していたあの頃への郷愁と、
深い諦観をもって。

もしくは「話が通じる人」に限定したければ、ゲーテッド・コミュニティーでするしかないのでは。


(どこまでもオープンでフラットな)ブログという存在はそのままに、しかしその周りに群がるコメントだけを"浄化"したい(そう理解しました)、と仰るのは、それは言下に「無理!」とこたえるよりほかないんじゃないかなぁ。
わたしにだって郷愁はありますよ、しかし現実としては。


関連→後ろ向きの解決が、現実解だと思うので。(2008.06)
……ああ、たった4ヶ月前だったか、このまえTB撃ち込んだの。




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2008.10.24

だいじに聴こうよ、やっと手に入れたその曲を。

以前にも書いたのですが。
まぁ、今よりは「だいじに聴く」ようには、なるかもね。(2007.12)

いつまで音楽はCDにこだわり続けるのだろう? - 北の大地から送る物欲日記

ネットを使えば音楽を地域やジャンルによる在庫数など関係なく、どこからでも容易に入手できる方法が実現しうると分かっているのに、(中略)目を向けない日本の音楽業界には本当にため息しか出ない。

真っ当な意見のようにも思えて、しかしどうにもモヤモヤするので、一日置いたのですがやっぱり。

全くの情緒的な考えを書きます。

入手をどんどん容易に、低廉に、というのは、入手したそれを一回こっきりで聴き捨てることにつながらないのですか。名付けて、『ディスポーザブル・ミュージック』。
いや一回でも聴かれりゃまだいいですよ、ダウンロードしただけで満足して一度も再生されなかったりして。

ですから、

(積極的にネット音楽配信を提供してくれるアーティストは非常にありがたい存在だが、そんなに多くはいない)

これは、そりゃそうでしょうよ、とも思わなくもないのです。
だれだって、聴き捨てられたくはなかろう?

すこし昔のシングルCDのミリオン続出の時代、ニュースか何かで読んだ話ですが、「みんなと同じものを買う」ことが目的、別に聴くわけじゃないの、なんて若年層が大量にいたとかいなかったとか。

自分のアンテナの方向が違うだけかもしれないですけれども、このあたりの件について演奏/歌唱者、今はアーティストというのですか、の「声」があまり聞こえてこない気がするのですが。
もし自分の好みのアーティストが「規制推進派」だったり「アンチ配信派」であることが明らかになったなら、みなさんは宗旨替えするのでしょうか、それとも見限るのでしょうか。


初代iPodがでたときに、たしか約10000曲収納できるんでしたっけ、それがネットでものすごい興奮をもって語られていた頃、リアル友人との忘年会だったかで「10000曲も入れてほんまに聴くわけあれへんやないか」とその存在を否定されまくっていたのを今でもよく覚えている私です。

だけど、実際そうじゃない?
ほんとに好んで聴くなんて、(非圧縮の)CD1枚におさまる程度の曲数じゃないんですか?

音楽を真っ当に対価を支払って購入して楽しもうという人にとっては、選択肢は(買う・レンタルする)か(買わない・レンタルしない)のどちらかしかない。せっかく聴きたい音楽を見つけられても、正当に(買う・レンタルする)という手段が存在しない場合には、(買わない・レンタルしない)しか選ぶことができない。
乱暴なことを言えば、それでいいじゃないの、と。

もっと「だいじに」聴かれるべきじゃないのかなと。
味わって。
繰り返し。
いま手の中にあるライブラリを、
あるいは「やっとの思い」で手に入れる、その楽曲を。

だから、百や千の単位で「安易に」ライブラリを増やせるように、なんてのは、(それはつまり、(一つ一つは)ろくに聴かれない、ってことですよね?)どうにもモヤモヤするのです。

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2008.10.19

あほやなぁ、って思うでしょ?

「ブログする」なんて。
メールみたいに特定の誰かやない、届くか分からへん「ヨノナカ」に向かって書き続けてるなんて。
しかも自分が書かんかったって別に誰も困らへんようなことばっかり。
そら、理解の範囲を超えるかもしれへんねぇ。

でもまぁ、やってる人もたいてい自覚してるんやないかなぁ、とは思うよ。
「あほなことやってんなぁ、自分」いうのは。
もうひとりの自分が醒めた目で見てる、ちゅうやつ。
始める前後は理想とか希望とか下心とかいろいろあるもんやけど、長く続けてたら、やっぱりどっかで醒めてくるよ。
あぁ、仕事でとか、職を得るためにとかいう人らは別やで。そういう人らはホンマ真剣でやってはると思うけど。


で、届いてるんか、ってあらためて聞かれると自信はないんやけどね。
アクセス数はもうほんまバラバラよ。
自分のmaxで時速300近かったこともあったし、「今週もやっと週の累計100こえたわー」いうこともあったし。
なんでそんな違うのかは……「ソーシャルブックマーク」とか「個人ニュースサイト」いうて意味分かる?分からへんよね、まぁ誰かに取り上げられることもあるんよ。
「晒される」いう意味やないよ?ちゃうって、炎上なんかしたことないって!(苦笑)

「読まれた」かどうか、いうのは分からんのよ。分かるのは「アクセスがあった」ことまでやから。
もうこれは信じるしかない部分があってね。
『「誰かにはちゃんと読まれてるんや」という信仰』がないと、まぁさすがに続けてられへんわ、いうのはあるんよ。
え?んー、まぁ、キモい言われたらそうかもしれんけど。
だけど「みんな」までは言わんにしてもある程度の共通認識やとは思うよ?書き続けてる人にとっては。
ただし「届く」「伝わる」なんてアクセスの1%もあれば御の字の世界よ?
そこは「やってみて初めて分かる」感覚かもしれへんね。


理解できんかもしれへんけど、
そんなにバカにするもんでもない世界やで。
とんでもない話もようけあるし、まるごと肯定する気は自分にもさらさらないけど、
大多数は節制効いてると思うし、「限界」いうんもちゃんと弁えてるから。

やってみたらどう?と"おすすめ"はせえへんよ、これは自分のポリシーとして。
だけど見る分にはいろいろ見て回ったら意外と楽しいかもしれへんで、芸能人有名人だけ追っかけるんやなくて。

……まぁ今日はこのへんにしといたろか(笑)、ほな。


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2008.10.18

石橋を叩いて渡るのも渡らないのも

自分が叩いてみた結果としての『自分の判断』に自信があるからこそ、ですよね。

うらやましい限りにございます。

……私?
それが草の蔓編んだ橋なのか鉄橋なのかというのはあまり問題ではなくて。
いの一番には渡れないし渡らない。
「渡れたひとの割合」と「渡れなかったひとたちの末路」を見て、(渡れない)リスクが許容限度内でありそうなら足を踏み出す、といったところ。

30人くらい見てさっさと渡る(かどうか決める)のか、1万人の統計を取ってからにするのかは「向こう岸に待つモノゴト」によりますが。

こういう性根を一言で何と表現すればよいのか分かりませんけれども。


パソ通のときは結構"待った"かな。始める前から雑誌記事や(あのころいっぱいあった)関連書籍を好んで読んでいたし。
ブログはさっさと始めてしまった。何が待っているのかも(あるいは何も無いのかも)知らないまま。




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2008.10.16

Twitterは、これでOK?

初期段階からの"古強者"の幾人もがあんまりにもくりかえし「Twitterで(だけ)はフォローもリムーブも気軽にしていいんだ」とおっしゃいますので。

「飛んでイスタンブール」の替え歌。翔んで、るのは警視正でした。


いつか溜まってきてた
こんなfollowのアイコン
数度クリックだけで
解除をできるひと
そうよみんなと同じ
ただのものめずらしさで
あの日しゃれたreply
目の前に表示して くれただけ……

さっと一旦remove
うらまないのがルール
だからふぁぼったことも
ひと思いウェブの藻屑

だれも軽くremove
光る画面スクロール
かりそめのパラダイス


……
それで、
本当に、
いいのですか?

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2008.10.13

今できつつある思い出を、どうバックアップしようか。

目の前のMOドライブがほこりをかぶっています。
パソ通を"卒業"してからというもの、バックアップをとらなくなったなぁ、と。

"あちら側"への根拠無き安心感とでもいうのか、
ブログの「書き出し」機能もこまめに使おうという気にもならず。

ほかにローカルで文章その他を書くわけでなく。
いつぞや書いたようにパシャパシャ撮るひとではなく。
住所録なんぞ年1回のメンテナンスで事足りるわけで。


「今できつつある思い出」の保存ができていないし、できない。
ブログの書き出しといってもコミュニケーションの記録まで取れるわけでもなく。
ましてやSNSやTwitterなど……


"あちら側"にアクセスできる環境を失えば、あとは記憶の中でしか辿れなくなるのでしょうか。

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2008.10.09

もし、「あの頃」が続いていたなら

ふとしたきっかけでギャンギャンやっていた昔を思い出すことがありまして。

(ネット)バトラーの(バトラーとしての)寿命は案外短いんじゃなかろうかと数度書いてきたのですが、

もし「適した場」が長い間隆盛を保っていて、
もし「適した相手」の供給(^^;が続いていたなら、
いまだにそれなりの頻度で"元気さ"を保ってキツいやりとりを繰り広げていたのかもなぁ、と。

そりゃぁアホらしいエネルギーの浪費ではあって、まぁ英語で言うところのagingといいますか、それを賄うだけのパワーを維持できなくなってはいるのですが、しかしそれだけが理由ではなくて、"安住の地"を失ったゆえなのかもしれないなぁ、と。


……もし、「あの頃」が続いていたなら。

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2008.10.03

千年前から規格外

"上役に正論で挑み続けてのし上がった男"の物語、というのはあるのでしょうか(この国で)。
正しい(と思う)ことを言ったがゆえに道を閉ざされた物語ならいくらでもありますが。


「コミュニケーションの結果に対する期待値」は、サイレントマジョリティのほうが圧倒的に高いのかもしれない。

"空気"や以心伝心が重んじられてきたから、はっきり言語化するなど最後の手段、したからにはきっちり(好ましい)結果を得ることが絶対条件、だったりして。


期待値が高いから諦観も深くなって。

過去にも一度か二度引用した『伊勢物語』にある在原業平の和歌:

思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ

他人は自分のコピーではありえないのだから……と。

言い訳をしないことは「正しさ」であり「潔さ」であって。

『男は黙って……』という「美学」にもなって。

あるいは現場勤めであればただ黙々と手を動かすことが「矜持」でもあったりして。


こうして、書いたことの1%も伝われば万々歳だと、繰り返し書き続けるわたしたち──あえて「たち」と書きます──みたいなのは、日本文化の中では千年も前からの「規格外」なんだろうなと、何が引き金でこんなこと書いているのかは秘匿しますけれども。

それでも、ツールの変化によって、こうして思いをどんどん言い、あるいは(公開で)書くことが「標準」とされる日が、この国にも来たりするのでしょうか?

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