千年前から規格外
"上役に正論で挑み続けてのし上がった男"の物語、というのはあるのでしょうか(この国で)。
正しい(と思う)ことを言ったがゆえに道を閉ざされた物語ならいくらでもありますが。
「コミュニケーションの結果に対する期待値」は、サイレントマジョリティのほうが圧倒的に高いのかもしれない。
"空気"や以心伝心が重んじられてきたから、はっきり言語化するなど最後の手段、したからにはきっちり(好ましい)結果を得ることが絶対条件、だったりして。
期待値が高いから諦観も深くなって。
過去にも一度か二度引用した『伊勢物語』にある在原業平の和歌:
思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ
他人は自分のコピーではありえないのだから……と。
言い訳をしないことは「正しさ」であり「潔さ」であって。
『男は黙って……』という「美学」にもなって。
あるいは現場勤めであればただ黙々と手を動かすことが「矜持」でもあったりして。
こうして、書いたことの1%も伝われば万々歳だと、繰り返し書き続けるわたしたち──あえて「たち」と書きます──みたいなのは、日本文化の中では千年も前からの「規格外」なんだろうなと、何が引き金でこんなこと書いているのかは秘匿しますけれども。
それでも、ツールの変化によって、こうして思いをどんどん言い、あるいは(公開で)書くことが「標準」とされる日が、この国にも来たりするのでしょうか?
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