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2008.11.30

『海外』旅行

A「海外旅行行ってきてん」
B「え?どこどこ?」

A「淡路島」
B「バキッ★」
A「海渡るねんから海外やん!」

阪神間定番のギャグでした。
……明石海峡大橋ができるまでは。


似たようなシチュエーションにある他地域ではそんなこと言わないのかどうかがいまだに謎なんです(笑)。

たとえば、
熊本エリアにおける天草とか、
広島エリアにおける宮島とか、
高松エリアor岡山/兵庫県境における小豆島とか、
京浜エリアにおける伊豆諸島とかを対象にしたそんな冗談を。

あるいはもうちょい遠距離の
五島列島や壱岐や隠岐や佐渡を対象にしても。


……情報募集(笑)

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2008.11.27

斜に構えているばかりでもないけど。

そして常々「趣味娯楽の領域からはみ出ないこと」を掲げておいて、ってことになるんだけど。

『明るい話』『笑える話』はなかなか書けないんですよねぇ……

というのは、楽しい/楽しかった事をメインに書いていくのがポリシーだ、というエントリをいくつか連なって見かけましたので。


ビジネスでいうSWOT分析ではないですが、自分の、あるいは属する組織の「長所」「強み」なんて、うんうんうなってようやくこじつけみたいなのが1つ2つ出てくる、のはよくある光景だと思うのですが。「弱み」「欠点」はやまほど出てくるのにね。

そんなことを思えば、『楽しい』『明るい』『ポジティブな』話をメインにしようと定めて、それを続けていられるというのは、わたしなどからすればものすごい<才能>なんじゃないかと思うのです。

ということで、どうしたって『後ろ向きの話』メインになってしまうわたしは余計辛くなってしまったりするのですが、
でもねぇ。


ある事象(ニュースとか)や、ある"雰囲気"に対する、

ボヤキとか、
釈然としない思いとか、
ときには憤りとか。

そんなことを書くのも、
「実は同じことを思っていたひと」には自分だけじゃなかったとの安心を得てもらえるかもしれない。
もしかしたらポジティブに考えていたひとの再考のきっかけになるかもしれない。


いつも斜に構えているばかりではないけど。
画面の向こうのひとを楽しませることはできないから。

パーセントなんて望まない、万に一つくらいは。

「再考のきっかけ」としてもらえたら、と思って書いていることがいくつかあります。
そして、たぶんこれからも。

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2008.11.22

音楽について、もう少し。(それと、無形のもの全般について。)

だいじに聴こうよ、やっと手に入れたその曲を。(2008.10)の追記ぽいもの。

鉱物資源問題や環境問題の切迫に代表されるように、『大量生産・大量消費は前世紀の遺物』という考えが支配的になっています。

翻って音楽それ自体は無形のものですから(演奏や記録や伝送には物理的資源の消費を伴いますけど)ややこじつけが過ぎる感はありますが、
CDが売れないことを嘆いてみたり、かたや誰それの曲が何百万ダウンロードされただのと騒ぐところを見ると、音楽──まぁいわゆるRock/Pops方面に限るのでしょうけど──の世界は、売る側も買う側もまだまだ『大量生産・大量消費』を前提とし、また是としているんだなぁ、と。

……とここまでを職場で掃除しているときに(笑)思いついて。

よくよく考えてみれば無形なもの全般について『大量生産・大量消費』は是認され続けているよなぁ、今世紀になっても、と。

たとえば芸人の"賞味期限"がどんどん短くなっていくのだって。
"旬の話題"がどんどん"瞬の話題"(←って先に変換された)になっていったり。

あるいはこうして寄ってたかって好きなことを書き散らしていたり。
それを「いかに効率よく」読むかに心血を注いだり。

……そして『つながりの大量生産・大量消費』なんですよね、SNS(はまぁ従前からのつながりの維持という側面もありますけれど)とかTwitterとか。

まぁ、そこはその輪の中に参加している以上私もその一翼を担っているのは間違いないわけですけれど。

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2008.11.21

続いていたいし続けていたい

いちど出来た、そしてやっと出来たつながりは。


失ってみればそもそもが「ネットでのつながり」なんてどれだけ儚いものか、と思うでしょう?
たから、儚いからこそ大事にしたいんですよ……なんて耳が赤なるわ、ほんまに。


前稿の続きをだらだら考えていたのですが。

まぁ個性の実力もありましてですね、私なんかはそうそう言及されることもなければつぶやきにReplyもらえることもごく稀ですから。

その分自分としては(どこであっても)いちど出来たつながりをとにかく続いていたいし続けていたいんだ、という思いを優先してしまう性分なんだろうな、と。
(とはいえ結構言及いただいたところに不義理を重ねていたりもするのですが)


いろいろな情報を、あるいは考え方を、ただ「見知る」目的ならば巡回先は(偏りを少なくして)広げるに越したことはないけれど、
いつの日か言及しようなんてことを考えながら、だったら巡回先が固定化しつつあることは別に自省にはあたらないのかもしれない、とは最近考え始めていたり。


こんな性分というか感性がライブラリをやみくもに増やすんじゃなくて、だいじに聴こうよなんてことを書かせるのかなと、自分で自分を再発見してみたりするのでした。



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2008.11.15

場が違っても、「人」なんですよ?

コミュニケーションする相手を加える/除くにあたっての"重さ"のこと。

開始当初からヘビーに使ってきた先駆者が異口同音に書くわけですよ、「Twitterではfollowもremoveも気軽にしていい(というか、気にしちゃいけないお約束)」と。

なんでなんで?

たとえばSNSでのともだち関係(mixiでいうところのマイミク)の加除とTwitterでの加除に"重さ"の違いがあっていいという(むしろ積極的に軽重差を作っているように感じますが)のはなぜ?

自分にだってそういう(気楽に加除する)"空気"をTwitterに感じないわけではないですよ(但しそれは(日本の)"アーリーアダプター"が自分たちで作り上げた"暗黙の了解"を繰り返し書かれたから自分もそう思ってしまっているだけのことかもしれないけど)、しかし。

「画面の向こうには人がいる」というのは、あなたがただってよくお書きになるフレーズですよね?
だったら。
「人」を基準として考えるなら
その(コミュニケーションの)場が何であるかは枝葉の話であって。
「場」を理由に相手を重く扱ったり軽く扱ったりするのはどうなの?と考えるんですよ。


"関係"に加えるときには。
そして除外するときにはもっともっと。
それなりの"覚悟"といえばさすがに大仰に過ぎますが、ともかくなにがしかの"重さ"をもった理由をもってそうすべきではないのでしょうか、と思うのです。

「場」が何であれ。

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2008.11.12

わたしは「読む落語」のようなものをネットに求めているのかもしれない。

釈明の釈明というわけではないのですが。
ほんとは前々稿からこの流れにつなげたかった意識もあったので。


いきなり長い引用をしますが:

なぜ、落語はおもしろいのか。繰り返し繰り返し稽古して、繰り返し繰り返し演じられるネタが、どうしてすりきれてしまうことなく、人の心を魅了し続けるのか。
(中略)
古典落語の世界となっているのは、いわゆる「古き良き」時代の大阪である。海も空気も汚染されておらず、地球上のどこにも核兵器や化学兵器などひとつとして存在していなかった頃の話である。出てくる人物は、(中略)根っからの悪人はひとりもいない。アホでのんきなやつらが、アホでのんきなことを今日も今日とてしでかすのだ。
落語は、笑うために聴くのではない。一度目は笑えたくすぐりも、繰り返し聴くと飽きてしまう。それなのに、同じ落語を何度聴いてもおもしろいのはなぜだろう。それは、落語の世界では、時間がとまっているからだ。殺伐とした話題ばかりが先行する今の世の中、核兵器も公害もテロもなかった「あの頃」の「あの連中」に会うために、皆は落語を聴くのだ。うまい噺家の手にかかれば、そういった架空の大阪が、目のまえにいきいきと蘇ってき、客は一時、世の中の憂さを忘れて、落語の世界の住人になることができるのである。
──田中啓文『子は鎹』<日本推理作家協会編 『仕掛けられた罪』ミステリー傑作選(講談社文庫:2008)所収>より

この部分を読んで、
わたしが「ネットワークコミュニケーションに求めているもの」の正体が分かったような気がしたのです。
前々稿で『浮世(=憂き世)から離れるため』という表現で始めたのはこの文章があったから、というわけで。

わたしは「読む落語」のようなものを見ることを、そして演じることをネットワークコミュニケーションに求めているのかもしれない。

そう考えれば、
わたしが、
ネットを始めてこの年末でまる12年、その間ほとんどブレずに
『「(リアルの)属性のしがらみ」からの自由』を重要視してきたこと、
書き手のプロフィールを白紙にして、発した文章を先入観なしに受け取ってほしいと思ってきたこと、
ネットではネットのことを、が基本姿勢でありたいと思ってきたこと、
画面の枠の中にとどまることを「純粋」と表現するような心性であること、
いわゆる「嫌儲」であること(上記引用文庫本へのリンクが断じて「アマゾン」や「bk1」などではないことに注意!)、
ネット(正確にはネット上でのコミュニケーション)と『生きる糧』との距離が遠いままでありたいと思ってきたこと、
これらのすべてが一本の筋として説明がつく(ような気がする)から。


落語のような、といっても、エントリ単体にいちいちオチをつける意味ではなく(そんな力量もないし)。

滑稽噺や粗忽噺だけが落語じゃありません。
人情噺もあれば、まぁ……ときには艶笑噺だって……。
あるいは講談や漫談に近いようなオチのない(必要のない)ものだってあるわけで。

珍問答だったり、ときに激しく言い争うも片方は妙に冷静だったり、あるいは微妙にピントのずれた口論だったりという、そういう"くすぐり"のおもしろさ、
「落語の登場人物が話すような"アホでのんきな"コミュニケーション」がわたしの理想なのだと。

自らその理想を外れたことを書くこともあるし(でもそれって大抵ネタ切れのときなのよね)、
ブログやネットワークコミュニケーションの話は(それこそ"ここ"ですべき話だと思うので)比較的マジメですが……

この世界が「浮世(=憂き世)とは別の」世界、であることを、
振り返れば牧歌的だった過去はもとより、
なにかと「現実」に侵食されつつある今も、
そしてたぶんこれからも、
わたしは願ってきたし、今も願うし、長くそう願える立場でありたい、と思うのです。




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2008.11.10

「悪いぶつかり方」をしてしまいました。

ネットを利用する目的は人それぞれだが、それでも我々は共存している - 北の大地から送る物欲日記のトラックバックを受領しました。
前稿を書き、ましてやトラックバックを撃ち込んだことで不愉快に思われたのであれば、そのことをまず率直にお詫びします。
「悪いぶつかり方」をしてしまいました。

不愉快の上塗りになってしまわないことを願いつつ、いくつか釈明させてください。


ネットを利用する目的は人それぞれだが、それでも我々は共存している - 北の大地から送る物欲日記

ネットをストレス発散の憂さ晴らしの場として捉えている人はネットで成長しようなんて望んでいませんよね?

主従を逆転させて読んでしまったといいますか、「成長しようなんて望んでないひと」イコール「ストレス発散の憂さ晴らしをするひと」として反応してしまったのが誤りだったかもしれません。
それはさすがにあんまりですよ、と感じてしまったのが発端です。

「そこをちゃんと踏まえて欲しい」ってのは、圧倒的多数派はこちら側なのだから、空気読んでおかしなことを言い出さないでくれる?ってこと?
それは多少過剰反応をされてしまったかなという気がします。 前稿において『ネットワークコミュニケーションを生産性とか投資効率とかいった類の概念で(略)覆わないでほしい』と書きましたが、それは、 『呑気な馴れ合いというか、アホなことで盛り上がっていたりする、即ち「コミュニケーションそのものが目的である」わたしたち』にまでそういう尺度の評価をかぶせて"ムダ"などと見下したり嘲ったりはしないでほしい、という切なるお願いなのです。

「成長派」「勤勉派」からすれば「お気楽派」がノイズであり(数が多いだけに)どうしても目障りであろうことは推測できます。
そりゃ数は多いかもしれませんが、上記のような感情が想像できる(結構表出させるひとも居るし)のですから、肩身が狭いのはこちらの方なのです。少なくとも私にとっては。
それらを踏まえて、「成長派」の視点から『二極化』を憂うエントリに接したものですから、むしろ"こちら側"を排除せずに、好ましくは存在を肯定してはいただけませぬか、とお願いを申し上げたつもりであったのですが。

「ネットで成長とかそんなの望んでない人が圧倒的多数派だからありえない、そんな主張をしてくれるな」と言われても困ってしまいます。
そうは申しておりませんが、とあとで言いましてもそう読めてしまったというのは当方の不徳でありますが、 しかし上述の通り肩身の狭い思いは私の側でありまして……
成長派に対して成長するにあたっての話をしている所にやってきて「私は楽しく派で、ネットというのは我々が圧倒的だから成長うんぬんなんて話すべきじゃない」と言ってしまうのがどうにも理解できません。棲み分けしようといいつつ、相手を排除しようという。
『成長派に対して成長するにあたっての話をしている所』の件については申し訳ありませんでした。勝手に分不相応な親近感を持った挙句に不愉快にさせてしまったことはただ平伏するばかりです。

ただ、排除の論理に関しては、上述の通りそうされる危機感を持っているのはむしろ当方ですので……それが攻撃的に読める書き方の原因であったかとは思いますが。


しかしそれこそこの度のような"冷や水を浴びせられる"のは、成長派というか切磋琢磨目的の側にダメージが大きいのではないかと思います(それこそ生活が懸かっていたりもするでしょうから)ゆえ、「フラット化の弊害」および「棲み分けの提案」については考えは変わりませんし、「お互いのため」であろうという思いも変わりません。


……長くなってしまいました。
繰り返しになりますが、不愉快の上塗りになってしまわないことを願いつつ、これにて。

Tristar 拝



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2008.11.09

拒絶はしないにしても、成長や生産的であることを「ネットする」目的にはしないかな。

そやかてうちら、浮世(=憂き世)から離れるために来てんやんか、こっちの世界までそんな概念で覆うの堪忍してほしいわ、というのが本音。

ネット上は二極化しがちだけど、あなたはどちらに向かいたい? - 北の大地から送る物欲日記

そもそも本人が成長したがってるかどうか?という根本的なところもあり、ネットをストレス発散の憂さ晴らしの場として捉えている人はそもそも成長は望むべくも無い。

えらい言われようですが(苦笑)。

リテラシーを身につけて"自分を磨く"、自己啓発だとか切磋琢磨だとか。
そこから発展して生業を得るだとか。
そういう目的のひとが少なくはないという存在自体は理解しているし拒絶するわけじゃない。
関連→質問 : ブログを読み書きするのって、 : アバウトミー : @nifty
また、そういったひとたちにとってのほほんと過ごしているわたしたちがノイズになってしまっているであろうこともまた理解だけはしているつもりなのですが。

だけど、だけどなんですよ。

何度も書いていますが、こういうところでがちゃがちゃやるのって圧倒的(とはいわないまでも)多数にとっては「あくまで趣味娯楽の領域」のこと、じゃないんですか?
そこをちゃんと踏まえて欲しかったりはするのです。
こんなところでまで「勤勉」や「目的意識」にとらわれにゃならんのか(まぁリテラシーはともかくとして)。
"こちら側"からすれば、ブログに限らずネットワークコミュニケーションを生産性とか投資効率とかいった類の概念で考えたり評価したりするのは頼むから止めてほしいと言いたくなるのです。
そんな概念からは対極にあることをやってるんですよ。だからこそ楽しいんじゃないですか。頼むからそんな概念で覆うなんてやめてほしいんですよ。


だから、ね。
切磋琢磨とのほほんが、オープンにフラットに、まったくわけ隔てなく混じりあってるから揉めるんでしょ、むしろ積極的に棲み分けたらどうよ、って書いているのですが。
「仕事のネット」と「趣味のネット」(2007.01)
敷居と質の高低について、そして「どこから発信すべきか」ということについて。(2007.07)
現実世界へのメリットや有益有能が前提なら、それ専用の場でするのが効率的だと思うよ、という図示。(2007.08)
無制限に「オープンで」「フラットで」あることの妥当性を再検証すべきだと思いませんか?(2008.05)
そこはあんまり同意してもらえなかったのね。

……どうすればいいのさ?




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2008.11.07

ほとんど何も起こらないのだけど。

まれに「人生を変えてしまう何か」が起こってしまうからタチが悪い(笑)。

思えば遠くへ来たもんだ - タケルンバ卿日記

何かを起こしたい。でも怖い。うまくいかないんじゃないか。でも行かねば何もかわらない。そういうジレンマとか葛藤があっていい。ただ、そういうときに前に出てしまうきっかけがあればいい、ちょっとした気持ちの動きで前に出れる瞬間があればいい。そして、そのちょっとの動きでも事態が動き出すところに自分をおけばいい。そう思うのです。

ものすごく引き込まれそうになる文章だった。あぶないあぶない(^^;。

……というのは、その「ギリギリの淵」で、「踏み出さない」ことに価値を感じる私だから。
画面の枠の中にとどまることを、私は「純粋」と呼びたい。(2008.03)
まぁ、過去にオフったこともあるし、それで何もかわらなかったからこその今でもあるのですが。


引用のような葛藤というのは、ネットコミュニケーションを始めるときにも持っていたのではないかと思います。
そこをわたしたちは踏み出してしまった。
で、
踏み越えた先で。
ブログ続けていれば、書いたことの内の1%でも、あるいはアクセスの中の1%にでも伝われば御の字なんだということを実感するのではないかと思います。
関連→あほやなぁ、って思うでしょ?(2008.10)
裏返せば、「一歩踏み出した」だけでは、そうそう「何かが変わる」ような事態が起こるわけじゃない、ほとんど何も起こらないことも実感している(はず)。


それはたとえば、
逡巡に逡巡を重ねて、
だれかにトラックバック撃ち込むのだって、
あるいはオフるのだって、
きっと同じことで。

『「踏み出すまでのドキドキ」に見合うだけの結果』なんて、たぶんそうそう得られるものじゃない。

ほとんど何も起こらないから。

「だからそんなに気負わず気軽に」
「だから無理するほどの意味もない」
話の続け方はどちらでもいけるのですけど、
どちらにせよ過度な期待を持つと肩透かしを食らう類のものではあるかもしれません。

……だけどまれに人生の転機になってしまったりするのが魅力であり恐怖でもあるんですね。
それがプラスかマイナスか結果が返ってくるまで分からないという。


ほとんど何も起こらないことを実感しながら、しかしそういう『「ギリギリの淵」でのギャンブル』に身を委ねてんねんなぁ(たとえ画面の中に留まっていても)、ということをあらためて認識したのでした。


そういえば関連→冒険者?(2008.06)

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