わたしは「読む落語」のようなものをネットに求めているのかもしれない。
釈明の釈明というわけではないのですが。
ほんとは前々稿からこの流れにつなげたかった意識もあったので。
いきなり長い引用をしますが:
なぜ、落語はおもしろいのか。繰り返し繰り返し稽古して、繰り返し繰り返し演じられるネタが、どうしてすりきれてしまうことなく、人の心を魅了し続けるのか。──田中啓文『子は鎹』<日本推理作家協会編 『仕掛けられた罪』ミステリー傑作選(講談社文庫:2008)所収>より
(中略)
古典落語の世界となっているのは、いわゆる「古き良き」時代の大阪である。海も空気も汚染されておらず、地球上のどこにも核兵器や化学兵器などひとつとして存在していなかった頃の話である。出てくる人物は、(中略)根っからの悪人はひとりもいない。アホでのんきなやつらが、アホでのんきなことを今日も今日とてしでかすのだ。
落語は、笑うために聴くのではない。一度目は笑えたくすぐりも、繰り返し聴くと飽きてしまう。それなのに、同じ落語を何度聴いてもおもしろいのはなぜだろう。それは、落語の世界では、時間がとまっているからだ。殺伐とした話題ばかりが先行する今の世の中、核兵器も公害もテロもなかった「あの頃」の「あの連中」に会うために、皆は落語を聴くのだ。うまい噺家の手にかかれば、そういった架空の大阪が、目のまえにいきいきと蘇ってき、客は一時、世の中の憂さを忘れて、落語の世界の住人になることができるのである。
この部分を読んで、
わたしが「ネットワークコミュニケーションに求めているもの」の正体が分かったような気がしたのです。
前々稿で『浮世(=憂き世)から離れるため』という表現で始めたのはこの文章があったから、というわけで。
わたしは「読む落語」のようなものを見ることを、そして演じることをネットワークコミュニケーションに求めているのかもしれない。
そう考えれば、
わたしが、
ネットを始めてこの年末でまる12年、その間ほとんどブレずに
『「(リアルの)属性のしがらみ」からの自由』を重要視してきたこと、
書き手のプロフィールを白紙にして、発した文章を先入観なしに受け取ってほしいと思ってきたこと、
ネットではネットのことを、が基本姿勢でありたいと思ってきたこと、
画面の枠の中にとどまることを「純粋」と表現するような心性であること、
いわゆる「嫌儲」であること(上記引用文庫本へのリンクが断じて「アマゾン」や「bk1」などではないことに注意!)、
ネット(正確にはネット上でのコミュニケーション)と『生きる糧』との距離が遠いままでありたいと思ってきたこと、
これらのすべてが一本の筋として説明がつく(ような気がする)から。
落語のような、といっても、エントリ単体にいちいちオチをつける意味ではなく(そんな力量もないし)。
滑稽噺や粗忽噺だけが落語じゃありません。
人情噺もあれば、まぁ……ときには艶笑噺だって……。
あるいは講談や漫談に近いようなオチのない(必要のない)ものだってあるわけで。
珍問答だったり、ときに激しく言い争うも片方は妙に冷静だったり、あるいは微妙にピントのずれた口論だったりという、そういう"くすぐり"のおもしろさ、
「落語の登場人物が話すような"アホでのんきな"コミュニケーション」がわたしの理想なのだと。
自らその理想を外れたことを書くこともあるし(でもそれって大抵ネタ切れのときなのよね)、
ブログやネットワークコミュニケーションの話は(それこそ"ここ"ですべき話だと思うので)比較的マジメですが……
この世界が「浮世(=憂き世)とは別の」世界、であることを、
振り返れば牧歌的だった過去はもとより、
なにかと「現実」に侵食されつつある今も、
そしてたぶんこれからも、
わたしは願ってきたし、今も願うし、長くそう願える立場でありたい、と思うのです。
| 固定リンク
コメント