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2009.02.28

それは、たぶん、すぐそこに待つ近未来。

「おきた!」から「寝ます~」まで(ひとによっては寝落ちまで(笑))Twitterにpostし続けるひとたちは、
『(家族との)食事どきでも、お風呂の中でさえケータイメールしてる』高校生たちのよき理解者なのでしょうか。


最近話題になったこの2つの話をつなげて考えたこと。

Twitter中毒の夫に不快感 : 恋愛・結婚・離婚 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「子どもの携帯電話等の利用に関する調査」の結果(速報)について:文部科学省


小町のほう、2ページ目にトピ主さんが出てきて「リアルタイム性がイヤ」(「ブログは気にならなかった」とも)なんだ、と。
(……という自己分析が載っているにもかかわらずブログ等でとんちんかんな推測のまま話進めてたひと多かったのが笑えた……のは別の話)
リアルタイムでなければ、ここ何十年と、世の「奥さま方」が、昔電話、今ケータイメールで"うちでのできごと"をペラペラしゃべるのとたいして変わりはない話だったのでしょうが。

文科省の調査に曰く、「よく使う」「時々使う」あわせれば高2の2割超が食事中にも、2割弱が風呂中にもケータイいじってるとのこと、まさに究極のリアルタイム。


だとしたら。
『「私と向き合っているリアルタイムにネット越しの誰かとも向き合っていること」への嫌悪感』のほうが異常視される時代がすぐそこに待っている・・・のでしょうか?

ぞっとするけど……「ぞっとする」と言っていられるのもいつまでなのか。ああ。

関連→メール作法:逆転の日は近いか。(2008.02)

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2009.02.25

刹那を繰り返してどうするのさ?

「友達」の定義は分からないけれど、人間関係を築きたいんでしょう?
やり方が逆だと思えるのです。

オンライン上で友達が欲しいと、思い続けて早幾年(はてな匿名ダイアリー):

新しいウェブサービスが出来れば登録し、活動し、そしてサイトが消滅するを繰り返し。
日本の無料ブログサービスを全制覇し、大体のSNSには所属して。

刹那を繰り返してどうするのさ。
最大限に手を広げてどうするのさ。

逆でしょう。

一つの「場」で、その相手と何往復かのやりとりが、「話を続けること」ができて。
それができて初めて、(お互いを)"ネット知人"として認識できる、つまり人間関係を築けるのではないですか?


一つの「場」に落ち着かず、次から次に飛び歩くのはどうかと思いますよ?
そして(ネットに使える)時間は有限なんです、手を広げれば広げるほど一ヶ所に関わる"濃さ"は薄まるじゃないですか。


『涙目で安住の地を捜しあるく』気持ちは分かるのですが。
関連→私の居場所はどこですか(2007.08)

刹那を繰り返してどうするのさ。

「話を続ける」ことを目指さないと。

でないと、誰からも"ネット知人"とさえ認識してもらえないんじゃないですか?
そう、思います。

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2009.02.23

『消火フラワー』

はるか昔のこと。
学校から見えるあの海に橋が架かるなんて知らなかった頃。

他愛もない集団のおしゃべりにひとこと加わった途端、場が静まり返る。

その状況を指して曰く、『消火フラワー』と。

思い出して今もあるのかと探したところ、
なんと"火消しのプロフェッショナル"の手による製品なのでした。

モリタ防災テック|防災・防犯関連製品|消火フラワー
(注意:勝手にナレーションつき紹介ムービーが始まります)


……2009年になんで思い出したかというと。

おいらがTwitterで発言した途端、30分以上もタイムラインが止まったから──22時台という、賑わうはずの時間帯に。


そういう運命なのでしょう。
それが個性の実力なのでしょう。
ああ。


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2009.02.22

気がつけばPNRは遥か後方

PNR(Point of No Return=帰還不能点):【航空(運航)】機体に何らかの故障が発生したとしても航路上の障害物(山脈など)・残存燃料等の理由により引き返すことが出来(ず、前に進むしか)なくなる航路上の地点のこと


いわゆる"ネットブック"の展示機を物欲しそうに眺める日々。
絶対「元を取る」ことが不可能なんだけど。

旅の空で。
近頃の(ビジネス)ホテルには結構レンタルパソコンが配備してあるし(\1000/泊が相場)、なければたいていネットカフェは見つかる。ネットカフェだと時間に追われるのが嫌とはいえ、自分の巡回スタイルだとせいぜい90分たらず、高くて700円前後。
巡回はUSBメモリに入れたFirefox, Portable Editionさえあればほとんど問題はないし。
ネットブック買っても元は取れない。画面狭いし(笑)。

あ、ケータイはちょっと論外ね。自分に合わなさ過ぎる。


以前はそんなこと無かった。
いまはブログ(自分のはどうでもいいけどソーシャルブックマーク含めた巡回先)やTwitter(自分のつぶやきはどうでもいいけどタイムライン)から"切り離される"たった一晩が耐え難くて。

なまじ"純粋に趣味娯楽"を標榜するだけに抑えがきかないのか、気がつけばいつのまにやら引き返せない深みへ。

もう無い頃には戻れない、とはいえ、「場」が消えれば戻れるはずなんですが、フォーラムがなくなってもこうして生きているように……



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2009.02.18

メール作法:逆転の日は近いか。

保険屋の新人さんからのメールが4通連続(件名なし)であることにストレスをためているTristarです、こんばんは。
そのうち半分は名乗りも署名も無しとか……

たぶん"ケータイ文化圏"の作法そのままなんだろうなと。


ただ。
今は社会に出る前から『皆が』メールを使っています。おそらくはケータイで。
そっち方面の職種は縁遠いのと新人が入らないので実情は分かりませんが、
それこそデジタルネイティブ(笑)な彼ら彼女らに、"メール作法"などというものを教えるようなことは今やありえないのかもしれません(さすがにセキュリティ教育はするでしょうが)。

昔は(通り一遍とはいえ)なにかしら組織としての教育はしていたはずで、そういう点では今の方がガタガタになっているような気が、"昔の人"であるところの私などはするのですが……

あと10年、いや5年もすれば。
"ケータイ文化圏"そのまま、の層が多数になって。
"こちら側"がほんとうに遺物扱いされるようになるんじゃないかと思うと今から気が滅入るのであります。
この流れは抗えそうにない……


例えば10年経って。
さすがにここがこのままでは無いでしょうが、どこかでまだ書く機会を得ているなら。
どんな嘆息を文字にしているのか、今から予想できてしまうような(苦笑)。

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2009.02.13

from Tokyo, to Tokyo, about Tokyo

ココログのアクセス解析には「アクセス地域」という項目がございまして。
アクセスしてきた都道府県が分かる(ただし判別できているのは実アクセスの3分の1程度ですが)ようになっています。

……いつ見ても「東京」がダントツなんですね。
2008年1年間を集計してみると、47都道府県あるうちの「東京」だけで(判別できた)全体の29%、関東(1都6県)で49%。

平成17年国勢調査による人口比では東京9.8%、関東で32.5%ですから、
昼間人口がどうの、という考慮を完全に超えて『ネットはリアルより東京(が言い過ぎなら首都圏)一極集中』といえそうです。
特に身内向けというのでなければ、ブログの内容やアクセスの多寡を問わず似たような比率構成になるのではないかと想像するのですが、皆さんのところはいかがでしょうか。


「ネットは空間の制約を受けないから……」などとよく言われますし、「だからこそ地方の/地方発の情報発信を……」ともよく見かけるのですが、こうもリアルより差の大きい「ネット人口比」だと、どうも、ね。

全国ネット(のマスコミ)で流れる流行が得てして"東京の流行"であるように、いやそれよりもっと、『「東京(が言い過ぎなら首都圏)のひと」が発信する「東京(略)のひと」に向けた「東京の情報」』に偏ってゆくし注目も集まるんだろうな、という……まぁ、感想を持ちました、というだけですけれども。

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2009.02.10

ソロプレイの悲哀、と表現しましょうか。

前稿にトラックバックいただきました。
さらりと(私にとって)一番厳しいことをおっしゃる……

ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): ブログなんてものは

きっと、個人メディアたるブログは孤独がベースだからなのでしょう。ブログは、本質的にはコミュニティ指向ではないような気がします。

ええ、孤独だという呪詛をまき散らし続けて5年余り、充分すぎるほどに実感いたしてはおりますがですね、納得はいたしたくないのでございます……


言及元で個人メディアという言葉が出ましたが。

言われるところの覚悟や責任というのは、これだけの敷居の低さ(そして、サービス業者・ユーザーが"共犯"で低くしようと躍起になってきたこと)と背反するのではないかと思います。
せいぜい身内宛ての身辺報告気分が公開できてしまう、そしてされてしまうこと。
自分を別扱いするわけではありませんが、ここまで広がって本当によかったのかなと今でも思っています。


さて、私も言及元とは違う話になってしまうわけですが、
「個人メディア」であることが(私にとっての)悲哀の根本原因なんだろうなと、改めて。

個人で伍してゆくことになりますからね。孤独にもなろうってもんです。
何度も書いているように、まず淘汰されるわけで。

ほとんど怠惰の結果とはいえ、場が消えた今もサイドバーの一番上でフォーラムへの郷愁を隠さない私です。
主人と読者で|読者同士で|みんなで(2006.04)に図示を置いてあるのですが、
まず『場』があって。そこでまぁ円卓でも車座でもいいですが、個人が集まって、という、
『場の力』で私でもコミュニケーションすることができた、というのが根元としてありますから。

このブログのサブタイトル、単にコンコルドが引退しちゃった、ってだけじゃないんです。
そういう、『場で、みんなで』というのも過去のものになっちゃったね、という嘆息をね、掛けてあるんです。
ブログ、それこそ「個人メディア」が脚光を浴びた時ですからね、ココログの始まりは。

そりゃぁね、(ブログ向きの)個性の実力があった人たちには良かったのでしょうけどね、"護送船団・結果平等"でなんとか生きてきた私には、ね……。


力もないままにソロプレイで生きてゆかざるを得ない悲哀、といいますか。
どうしても私からはそういう表現になってしまうから。
そのことを表現を変えつつだらだら綴ってきたし、そうしてゆくんだろうと思っています。

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2009.02.08

「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。

「明るい(ポジティブな)ことだけで構成されたブログ論」を読むたんびにイラッとする。

そんなことが起こる可能性を頭から否定するわけじゃない。
いくつかは実体験にもとづくものだろうし。

だけどね。
それは「日常」ではないでしょ、と。
日常、すなわち、
((読まれたくて)ブログする)
ほとんどの人にとって、そして、ほとんどのエントリというのは、

玉石の石として淘汰されて、
読まれも(どころか見られさえ!)しないまま流されてゆくものでしょう?
その「真っ暗闇」こそが日常の風景じゃないですか。

たぶんブログを続けていけるかどうかのカギになるのは、その『闇の日常』を受け容れることと、いかにその日常を耐え忍んでゆくか、ということだと思うのですが。
……といって確たる「耐え方」があるでもなく、内心フラストレーション貯めつつ表向き淡々と更新してゆくしかないかもしれませんが……
ともあれ、期待のしすぎは身体に毒よ、それが絶対的な基礎になるはず。
ついでに言うと、更新頻度が高いほど、たとえばブログよりTwitterの方が"毒の回り"は速いから。


明るい話はあるでしょう、ただそれは闇の中に運がよければ射すかもしれない光にすぎないのであって、そのことばかりを前面に押し出すのはどうなのか。
サービス提供業者がそれをアピールするのは"業務"だから当然な面もあるけれども、ユーザーサイドまでもが(そんな針小棒大に)「加担」するのはどうなのか。

圧倒的多数の圧倒的な時間を占めるその『闇』を過小に扱って、あるいは触れずに、
「明るい(ポジティブな)ことだけで構成されたブログ論」を読むたんびにイラッとして。
たまにトラックバック撃ち込んで、
たまにおもいっきり怒られて、当分その相手とはコミュニケーション謹慎する。
……ことを繰り返してしまうと思う。たぶんこれからも。

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2009.02.04

いちばん伝えたいことは、いつ放つのがいいのだろう。

ケータイのCメールとやらで自分史上初の架空請求を受け取ってなぜかニヤニヤしてしまったTristarです、こんばんは。
「世間で話題の」ものごとがやっと届いたことで「自分も世間並」になれた気分、といいますか。
これも一つの『承認欲求』なのでしょうか、まぁ犯罪者に承認されても仕方ないのですが。


さて、その『承認欲求』つながり(!)の本題。

書き散らす、といえば表現は悪いですが、気負いもなにもないエントリもあります。
だけど、これは書いて世に放ったからにはとにかく読まれたい、というものもあったりします。
いちばん伝えたいこと。

それを放ったのが「読者を得るキッカケ」になったと思われるブログ(等)はよくあるけれど、あまりに不確実。
"こういう系統の話にはノってくれそうな"読者を一定数得られたと思ったときに出すのがいいのか。でもそれまでの道程は、たぶんあまりに遠くて。

「コツコツと」続けて。
幸いにも自分なりの「手ごたえ」が得られた頃には、実はほんとうに伝えたかったことは遥か過去ログの彼方に埋もれて……というひと、案外多いんじゃないかと思っています。


いちばん伝えたいことは、いつ放つのがいいのだろう。

ブログならまだしも、もっと流れの速い、たとえばTwitterとかで、たまにそういうことを考えたりします。

整った『フォント』で表示される文字列に、それを書いたひとの思いまでは載らない、載せられないのはもう充分に実感してはいても、これをスルーされるとちょっと精神衛生上よくないのよね、という文章があったりするのです。

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