凹むのは、たったひとつの「わたしの心」
字余り。
ネットで活動していると、(中略)
なんかまあ、いろいろ、自分の名前(id)が批判や
否定される場所ってありますが、(中略)
それって「自分」のことじゃないというか、普段の生活している
本名の「わたし」と、ネット上で発言したりエントリー書いてる「わたし」って
同じなんだけど、微妙に違う。
否定や批判されているのはその「意見」や「発言」であって、
「そのひと自身」ではないことが多い。
ネットとリアルが不可分であれば言わずもがな、
リアルとは厳しく峻別している(つもりの)「ネットの私」であっても。
「人」をけなされようと、
「意見」を批判されようと。
叩かれたら、凹むのはいづれも同じ、ひとつしかない『「中の人」の心』じゃないのかなぁ?
そしてそれは、「こんなところ」で「こんなこと」をしている限り、逃れられないリスク。
きつい言葉を投げられることのみならず、
反応がない、どころか見られもしない現実に。
陰鬱な思いになること、かならずあるんだから。
「我慢しなきゃいけないこと」と、「それで得られるいいこと」の「走り出してから考えればいいじゃん」ってことなんでしょうけど、うーん。。。
秤が「いいこと」に振れていない限り、我慢することなんてない。
(ビジネスの臭いのする)「ジンミャクヅクリ」や「切磋琢磨ニヨリ自他ノ成長ニ資スル」いうようなことでもなければ、それでも『「リスクを取る」必要』があるのかどうかを、走る前にたっぷり脅しを効かせる、ここ数年はそういう考えに変わりはない私です。
関連→
そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2005.06)
『だから、あなたは、始めないで』(2007.04)
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