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2009.04.25

これを機に、『超漢字』はもっと評価されるようになり、飲酒状態はもっと指弾されるようになるべき。

あくまで一例ではあるのだけれども、「草なぎ」と表記せざるを得ない不自然さがどれほどのものか、皆よーく分かったと思います。

これを機に。
日本……のみならず、主にアジアのマルチバイト文字(を使う文化)圏においては、サーバはともかくクライアントマシンはBTRON仕様OS「超漢字」にさっさと席巻されてしまうべき。

関連→年賀状素材に、よければどうぞ。(2004.12)


そして。
人が酔っ払った状態で公共の場に存在することは、もっと「異常なこと」として指弾されるようになるべき。公権力うんぬんじゃなくて。
きれいな言い方をすれば「酒とのつき合い方」というのか。
よほど酒類関連の政治力が強いのか、今回もやはりそういう方向の問題にはされないようで。

これは事件とは関係ないけど、
全国あまねくたばこ自販機にtaspo(の認識装置)をつけることができたんでしょう、
なんで同じように酒類の自販機に同様のシステムをつけられないの?
だれも疑問を感じない??

関連:
たばこは嫌です。でも、酒のほうがもっと嫌です。(2007.09)
たばこと酒とクルマの違い(2006.09)
ねぇ酒は?酒の規制は?(2005.11)
正式略称:トラ退治法(2005.03)


……まぁ、どっちも、そんな方向に進むことは期待できそうにない話。

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2009.04.24

「君も素麺 我も素麺」?

そういえば神姫バスにナントカ──いま調べたら「宮中そうめん流し」という名のバス停がありましてですね、通りかかったのが真冬だったので苦笑したことを思い出しました。


さて。
前稿にトラックバック頂きました件。

2009-04-23 - 明日は明日の風が吹く

見もしないのにフォローするのは、たまたま見た時、その画面に面白い事が書かれていたら良いなという、宝くじ的な期待から(笑)

twitterにおけるフォローは、相手のつぶやきを自分の観測レーダーに捉えたくらいの感覚 - 北の大地から送る物欲日記

フォローしている人々に対して、どこかで互いの興味が一致して会話を楽しめたらな、くらいの緩い感情しか抱いていません。(中略)緩い感情しか抱いていないので、それぞれを個別に認識できるほどマメにタイムラインをしっかり読もうとは思いません。

うーん、どなたの作った言葉だか存じませんが、『情報の流しそうめん』理論、なんでしょうか?
事実上無限にあとからあとから流れてくるから、いま目の前を流れるものを全部取り込む必要なんてなくて、気になったものだけつまんでいけばいいのさ、という。

twitterにおけるフォローは、相手のつぶやきを自分の観測レーダーに捉えたくらいの感覚 - 北の大地から送る物欲日記

こっちがフォローしてる人全員を把握していないように、別にフォロワー全てが私のことをしっかりと認識してくれなくてもいいと思っています。

他人(が出した情報)をそう扱うのと「対等に」、自分(が出した情報)もそう扱われて構わない、と。

彼も我も(大量に)流れてゆくそうめんのなかの1本だと。

なんだか切ない気もしますが、それが時代──ウェブ時代──に合った考えだといえばそうかもしれないですし、だからこそ同じことを繰り言として──伝わるまで何度でも──書いていいんだ、という気楽さもあるのでしょうが……


レーダーの例えを借りれば、「雲」が対象の気象レーダーじゃなくて、探査レーダーだと思うんです、
個別対象である機影or船影を捉えてるんだから、それぞれをちゃんと"見て"、識別して(、追いかけて)こそ使い方でしょ、と。

それに、いわゆるbotを除けて考えると、場がなんであれ、やはり、流れるのは、「人」の発した「思い」なんじゃない?
たとえ「軽いつぶやき」でも、"情報の記述"とは違う「重さ」を感じるというか。

関連→Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。)(2008.08)

あと、大量生産・大量消費──消費してから捨てるならまだしも、並べておきながら見もしないわけですよね──への違和感もあって。

もったいない、と思わない?(2009.03)


ほかにもソーシャルブックマークなどでも反応を頂いておりますが、そういうわけで、やはりまだ、再考を促したい気持ちのままではあります、はい。

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2009.04.22

フォローしたのは、他でもない「自分」でしょ?(Twitterで過ごした1年)

丸々他サービスの話は自分に課したポリシー違反なれど、文章となるとやはりここで、ということになるわけで……


Twitter日本語版スタート1周年とのことで、わたしも参加させてもらってちょうど1年が過ぎまして。

ええ、あまり自覚できるほどの変化はございません。
結局はブログと同じようなもので、「タイムラインを眺めて楽しむ」ことと「自分も参加する」ことに、悲しいかな(楽しみという点で)さほど大きな差が生じない現状にございます。
まぁ、群衆の中の孤独と申しますか……「場」がなんであれ、それが自分の、そして元気に目立つあのひとの個性の実力なんだ、ということを再確認した次第ではあります。


……と自分のことはともかく、"暗黙の了解"である(と思われる)これには物申したくなるわけでしてですね、...

シロクマ日報 > 「ふらりと立ち寄れる」感が Twitter の魅力 : ITmedia オルタナティブ・ブログ

はっきり言って、僕は自分のタイムラインに流れているメッセージを全て読んではいませんし、自分をフォローして下さっている相手にも「僕のメッセージは全て読んでくれ!」などと求めてはいません。それが Twitter に一般的な文化なのかどうかは分かりませんが、何となく同じ前提で Twitter と付き合っているユーザーは多いように感じます。

『現実の事象』としてその感じは同意するのですけれども、けれども、それはやっぱりなんかオカシイんじゃないか(さも当然のように言うことか?)、と思うのです。

個々人の生活スタイルにもよるでしょうが、
3桁も4桁もフォローしているのであれば、相手と自分の"活動時間"にズレがあったりして『フォローはしたけど一度も(つぶやきを)見ることはない』相手、というのがやまほど存在する、というか圧倒的多数を占めるようになるのではないか?と思うのですが、違うのでしょうか。

……見ることもない相手を、なぜフォローするんです?
そこが分からないんです。


ブログと同じく「読まれたくて書いてるんです」と言い切りますけれど、さりとて自分のつぶやきの「全部」を読んでほしいとも読まれるとも思っていません(まぁ、2割3割は「見られて」いてほしいし、1割2割は「読まれて」いてほしいけどね)が、もはやそういう次元じゃないですよね。

他でもない自らが「『フォローする』という操作をした」相手──人とは限らないらしいけど──じゃねえのかい?
なのに見ることもない、それが当たり前、ってのは、ちぃとばかし、相手に対する誠意とか敬意──と言やぁ重過ぎるが、ともかくそういうもの──に欠けちゃいねえか、旦那。


数百も、あるいは4桁もフォローしているひとに(上記を踏まえて)問いたい。
結局(つぶやきを)見ることもない相手を、なぜフォローするのか、しているのか。
「自らフォローした」結果としてのそのことに、疑問を感じたりはしないのか。
あるいはそれだけのフォローを相手にしても目を通せる管理方法があるのか。

……繰り返しますが「全部」読む「必要」なんて思っていませんよ。
ただ、「自らフォローした」以上は、相手を認識できる程度には目を通そうや、と。

その辺りのこと、再考を促したい、と思います。


関連→場が違っても、「人」なんですよ?(2008.11)

ついったー関連→お芝居は、もうオシマイ?(2007.04)




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2009.04.19

凹むのは、たったひとつの「わたしの心」

字余り。

叩かれてるのは「あなた」じゃない - 備忘録

ネットで活動していると、(中略)
なんかまあ、いろいろ、自分の名前(id)が批判や
否定される場所ってありますが、(中略)
それって「自分」のことじゃないというか、普段の生活している
本名の「わたし」と、ネット上で発言したりエントリー書いてる「わたし」って
同じなんだけど、微妙に違う。
否定や批判されているのはその「意見」や「発言」であって、
「そのひと自身」ではないことが多い。

ネットとリアルが不可分であれば言わずもがな、
リアルとは厳しく峻別している(つもりの)「ネットの私」であっても。
「人」をけなされようと、
「意見」を批判されようと。

叩かれたら、凹むのはいづれも同じ、ひとつしかない『「中の人」の心』じゃないのかなぁ?

そしてそれは、「こんなところ」で「こんなこと」をしている限り、逃れられないリスク。

きつい言葉を投げられることのみならず、
反応がない、どころか見られもしない現実に。

陰鬱な思いになること、かならずあるんだから。


「我慢しなきゃいけないこと」と、「それで得られるいいこと」の
秤が「いいこと」に振れていない限り、我慢することなんてない。
「走り出してから考えればいいじゃん」ってことなんでしょうけど、うーん。。。

(ビジネスの臭いのする)「ジンミャクヅクリ」や「切磋琢磨ニヨリ自他ノ成長ニ資スル」いうようなことでもなければ、それでも『「リスクを取る」必要』があるのかどうかを、走る前にたっぷり脅しを効かせる、ここ数年はそういう考えに変わりはない私です。



関連→
そなたの画面に映りしは、足抜け叶わぬ我が姿(2005.06)
『だから、あなたは、始めないで』(2007.04)


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2009.04.15

変わりつづけるネットの世界で、たったひとつの変わらないもの

運営批判とバトルはネットの華

これだけは変わらんなあ、と(笑)。


時代が変わり、
参加する人が代わり、
"暗黙の了解"が変わろうとも。

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2009.04.06

書くまでがブログ?書いてからがブログ?

「自分のために書いてるんです」と言えるか否か、を別の表現にしてみただけですが。

二つの匿名ダイアリーを読み、「他人に期待する点」が気になった。 - どんなジレンマ

基本期待しないのだけど、だからこそ、時に、誰かと意思疎通が上手くいったりする出来事が尊いのではないかなぁ。

実際にはそうかもしれないですけど、基本期待しますよ。
だからこそ公開しています、と「私は」言い切りますけどねぇ……。
書いて(公開するよう設定して)からがスタート、だと。

(コミュニケーション=双方向のやりとりが続くこと、と狭く解釈すれば)いまさら『ブログはコミュニケーションツールだ』と言うつもりもありませんし、
おっしゃるように期待が過ぎると怨念に変わって精神衛生上よくないのですが、それでも!


何度か書きましたが、「自分のため」が第一義にはならないですねぇ、今でも。


で、逆に、考えを文章にすること、とか、「自分のため」を標榜するひとたちにとっては、表現を変えれば「書くまでがブログです」と言えるのだろうかと、そんなことを考えたのがタイトルの由来。

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