丸々他サービスの話は自分に課したポリシー違反なれど、文章となるとやはりここで、ということになるわけで……
Twitter日本語版スタート1周年とのことで、わたしも参加させてもらってちょうど1年が過ぎまして。
ええ、あまり自覚できるほどの変化はございません。
結局はブログと同じようなもので、「タイムラインを眺めて楽しむ」ことと「自分も参加する」ことに、悲しいかな(楽しみという点で)さほど大きな差が生じない現状にございます。
まぁ、群衆の中の孤独と申しますか……「場」がなんであれ、それが自分の、そして元気に目立つあのひとの個性の実力なんだ、ということを再確認した次第ではあります。
……と自分のことはともかく、"暗黙の了解"である(と思われる)これには物申したくなるわけでしてですね、...
シロクマ日報 > 「ふらりと立ち寄れる」感が Twitter の魅力 : ITmedia オルタナティブ・ブログ:
はっきり言って、僕は自分のタイムラインに流れているメッセージを全て読んではいませんし、自分をフォローして下さっている相手にも「僕のメッセージは全て読んでくれ!」などと求めてはいません。それが Twitter に一般的な文化なのかどうかは分かりませんが、何となく同じ前提で Twitter と付き合っているユーザーは多いように感じます。
『現実の事象』としてその感じは同意するのですけれども、けれども、それはやっぱりなんかオカシイんじゃないか(さも当然のように言うことか?)、と思うのです。
個々人の生活スタイルにもよるでしょうが、
3桁も4桁もフォローしているのであれば、相手と自分の"活動時間"にズレがあったりして『フォローはしたけど一度も(つぶやきを)見ることはない』相手、というのがやまほど存在する、というか圧倒的多数を占めるようになるのではないか?と思うのですが、違うのでしょうか。
……見ることもない相手を、なぜフォローするんです?
そこが分からないんです。
ブログと同じく「読まれたくて書いてるんです」と言い切りますけれど、さりとて自分のつぶやきの「全部」を読んでほしいとも読まれるとも思っていません(まぁ、2割3割は「見られて」いてほしいし、1割2割は「読まれて」いてほしいけどね)が、もはやそういう次元じゃないですよね。
他でもない自らが「『フォローする』という操作をした」相手──人とは限らないらしいけど──じゃねえのかい?
なのに見ることもない、それが当たり前、ってのは、ちぃとばかし、相手に対する誠意とか敬意──と言やぁ重過ぎるが、ともかくそういうもの──に欠けちゃいねえか、旦那。
数百も、あるいは4桁もフォローしているひとに(上記を踏まえて)問いたい。
結局(つぶやきを)見ることもない相手を、なぜフォローするのか、しているのか。
「自らフォローした」結果としてのそのことに、疑問を感じたりはしないのか。
あるいはそれだけのフォローを相手にしても目を通せる管理方法があるのか。
……繰り返しますが「全部」読む「必要」なんて思っていませんよ。
ただ、「自らフォローした」以上は、相手を認識できる程度には目を通そうや、と。
その辺りのこと、再考を促したい、と思います。
関連→場が違っても、「人」なんですよ?(2008.11)
ついったー関連→お芝居は、もうオシマイ?(2007.04)
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