「君も素麺 我も素麺」?
そういえば神姫バスにナントカ──いま調べたら「宮中そうめん流し」という名のバス停がありましてですね、通りかかったのが真冬だったので苦笑したことを思い出しました。
さて。
前稿にトラックバック頂きました件。
見もしないのにフォローするのは、たまたま見た時、その画面に面白い事が書かれていたら良いなという、宝くじ的な期待から(笑)
twitterにおけるフォローは、相手のつぶやきを自分の観測レーダーに捉えたくらいの感覚 - 北の大地から送る物欲日記:
フォローしている人々に対して、どこかで互いの興味が一致して会話を楽しめたらな、くらいの緩い感情しか抱いていません。(中略)緩い感情しか抱いていないので、それぞれを個別に認識できるほどマメにタイムラインをしっかり読もうとは思いません。
うーん、どなたの作った言葉だか存じませんが、『情報の流しそうめん』理論、なんでしょうか?
事実上無限にあとからあとから流れてくるから、いま目の前を流れるものを全部取り込む必要なんてなくて、気になったものだけつまんでいけばいいのさ、という。
twitterにおけるフォローは、相手のつぶやきを自分の観測レーダーに捉えたくらいの感覚 - 北の大地から送る物欲日記:
こっちがフォローしてる人全員を把握していないように、別にフォロワー全てが私のことをしっかりと認識してくれなくてもいいと思っています。
他人(が出した情報)をそう扱うのと「対等に」、自分(が出した情報)もそう扱われて構わない、と。
彼も我も(大量に)流れてゆくそうめんのなかの1本だと。
なんだか切ない気もしますが、それが時代──ウェブ時代──に合った考えだといえばそうかもしれないですし、だからこそ同じことを繰り言として──伝わるまで何度でも──書いていいんだ、という気楽さもあるのでしょうが……
レーダーの例えを借りれば、「雲」が対象の気象レーダーじゃなくて、探査レーダーだと思うんです、
個別対象である機影or船影を捉えてるんだから、それぞれをちゃんと"見て"、識別して(、追いかけて)こそ使い方でしょ、と。
それに、いわゆるbotを除けて考えると、場がなんであれ、やはり、流れるのは、「人」の発した「思い」なんじゃない?
たとえ「軽いつぶやき」でも、"情報の記述"とは違う「重さ」を感じるというか。
関連→Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。)(2008.08)
あと、大量生産・大量消費──消費してから捨てるならまだしも、並べておきながら見もしないわけですよね──への違和感もあって。
もったいない、と思わない?(2009.03)
ほかにもソーシャルブックマークなどでも反応を頂いておりますが、そういうわけで、やはりまだ、再考を促したい気持ちのままではあります、はい。
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