『生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。』
引用するのは二度目、あるいは三度目か。
タイトルは<リーナス・トーバルズ[Linux開発者]+デイビッド・ダイヤモンド・著/風見潤・訳/中島洋・監修:『それがぼくには楽しかったから』:小学館プロダクション:2001年>より。
(出版社が社名変更していたうえに書籍検索に出てこなかったのでリンク省略)
前世紀に通り過ぎた「社会化」のフェーズにいまだ夢を託し、なおかつそこで「進歩」を留め置こうとするほうこそ、よほど『残念』と言えるんじゃないんですかね、見方を変えれば。
日本のネットで本当に残念なこと 「梅田発言」の波紋 インターネット-最新ニュース:IT-PLUS:
本当に残念なのは、(中略)粘り強く中高年に可能性を伝え、若い経営者には問題を解決して社会とのコンフリクトを減らすように助言・指導する「大人」が少ないこと
かつては居た、と思いますけど?
パソコン通信の昔にはね。
ビジネス上の地位もそれなりに高いひとは数多おられたように感じましたし、
ということは参加者の比率でいうと今とは比べ物にならないくらい高かったはずなのですが、
それでも世の中──セージケーザイ方面を指すのですよね──を変えられなかったわけですよ。
あのひとたちは本当にどこへ"消えて"しまったのか、
なぜ「インターネットでのコミュニケーション」には出てこなかったのか、
それは分かりませんけれど、
現象として(日本語文化圏では)「社会化」のフェーズはパソコン通信の時代に通り過ぎてしまった、そう言えるのではないですか?
だから、「インターネット時代」になったときには既に娯楽のフェーズに「進歩」したあとだった、のです。
さらに言うと。
世界有数のブロードバンド環境と高性能な携帯市場
それも「娯楽化」を加速させた一因ではないのですか?
敷居が下がるとなぜか"上"が隠れる(鴨居に頭をぶつける人が出てくる、という名言を読んだことがありますが)のは経験則からみて「法則」と言っていいと思いますけど?
とにかく。
「娯楽」にたどり着いた進歩がいまさら「社会化」に逆行することなどあるものか、と正しく認識すべきではないかと思うわけであります。
関連→ナニヲイマサラ。(2009.06)
といっても、エンタメ・サブカル方面には有効なんでしょう?
それで、いいじゃない。
過ぎ去りし「社会化」のフェーズにいまだ夢を託したければ、新たに仕切った場で(人の)流入と(情報の)アウトプットを絞ってやればいいのに、と思いますけれども、オープンなネットコミュニケーションで、ということであれば、
「ヨノナカヲ動カス為」などという"目的意識"や「(稼ギニ)使エソウナ情報and/or人脈ネットワークヅクリ」などという"邪な考え"には一刻も早く絶望していただき、コミュニケーションそのものを目的とする純粋な使い方に一刻も早く立ち返っていただくことを、心より願ってやみません。
関連→純粋になろうよ。(2009.03)
もう一度繰り返しておきましょう。
生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。
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