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2009.08.22

なんとなく、ノスタルジー。

タイトルに反応。

すごくどうでもいいことで本気になって喧嘩したい。(はてな匿名ダイアリー)

それ、ネットでならいくらでもできる……いや、できた、よ...

パソコン通信の頃なら。


Webでいうところのページデザインもなく、文字飾りも一切無い、ただひたすら文字だけで。
「すごくどうでもいいことで本気になって喧嘩」は行われていました。
毎日毎日、いくつもの場所で、
あきれるほどの長文の応酬で、
コメントツリーが延びてゆきました。


いまでもたまに読み返しますけれど、いまのレイアウトやスタイルに慣れてしまった目には正直"きつい"(笑)。
なんであんなことができたんだろうね、と。

もちろんブログでもトラックバック何往復も撃ちあって、ということがあるけれども、せいぜい年に一度もできればいい方で。
「こうして何往復もやりとりできる奇跡に感謝」みたいなことを言われたこともあるし"いまの"基準で言えばこちらこそ感謝、と同感なんですけれども、……

あのころは至極当たり前だったことが、ねんで"奇跡"になっちゃったんだろうね、と思うのも正直なところ。

いいことばかりだったわけでもないので単純に「戻りたい」ということはないのですが、パソ通への郷愁拭い難く。


……言及元へ戻って。
ん?コント?
ってことは「音声会話」?
んー、それは知らない(をい

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2009.08.21

とある年の、残暑の光景。

いや、それは同意するのですが。

政治ネタがつまらねえ - じゃあ、死んで@d.hatena

だって政治ネタを語る人たちって全っ然、相手の言い分を聞かずにひたすらキャンキャン吠えてるだけじゃない。
そもそも事実に近付こう、現実はどうなってるかを少しでも把握しようとする気構えがないもの。

仕方ないですよ、
「床屋政談」「井戸端会議」「居酒屋談義」がネットに場を移しただけ、なんだから。

ある意味それでいいし、「だが、それがいい」部分があると思うんですよね。
……自覚がある限りは。

関連→「うつつをぬかす」、それこそが正統。(2009.08)



選挙戦、ネットでの応援は要注意 書き込み、公選法違反の恐れ(NIKKEI NET):

特定候補者や政党に投票を呼び掛けたり、中傷したりすると、個人のブログや会員制の交流サイト(SNS)でも違法になる。

とにかく現行法では違法行為なわけでして。

ブログは言うに及ばず、Twitterでも次々ハッシュタグ追加して"祭り"を延命させたあげくにhttp://www.followsenkyo.jpですか、なんか「違法推奨!」と言ってるようにしか見えないのですが。

『時代錯誤の法律無視する俺たちカッコイイ』とか、それこそ俗に言うところの厨二病じゃないんですかね?

そんな雰囲気に浮かれて違法/無法投稿するような連中は、ひとり残らず「投票日前に」しょっ引かれて公民権停止(当然選挙権剥奪)されることを切に望みます。


関連→もう笑うしかない(主に失笑として)(2009.07)




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2009.08.18

「うつつをぬかす」、それこそが正統。

これだけ大規模な『「ネットで何か書く」ということの正統な使い方』はひさびさに見た気がいたします。

……ええ、(チェーン)居酒屋のオペレーション談義のことでございますが。

議論に加わったほとんどのひとにとって、"店と客との関係"の話はそれほど自身に切実であったり身につまされたり切羽詰まっていたりすることはなさそうですし、またあまり自分の身にひきつけての話でもないように感じられました。
そういう議論を、大真面目に、延々アップデートする──ただ、昔のように"レスの応酬"ではありませんが。

……揶揄や非難で言うのではありません。それでいいし、それがいいのだと思いますので。
#今回俎上に載った作家さんにとってはまぁたまったものではないでしょうが、しかし御著書の売り上げにはそう影響はしないとも思われますし、...(^^;;;


うつつをぬかす、は、「現を抜かす」と書きます。
現実から抜けて、浮世から離れたところで、思いを書く。

リアルへのフィードバックを前提で考えないし、考えた話をしない。
その"暗黙の了解"のもとで、さまざまな議論に「うつつをぬかす」。

それこそが、(あいさつやQ&A以外で)「ネットコミュニケーションとして何か書く」ということの正統な──前世紀から連綿と続く──使い方ではなかったか、と思います。
だから「居酒屋談義」「床屋政談」「井戸端会議」がネットに場を移しただけ、と表現してきたのでありますし、そして、願わくばこれからもそうあってほしいと、そういう思いがここ最近のエントリに書いたことの根元なのでございます。




関連:
変わったら、変わりばえがなくなった。(2007.02)
純粋であれ!と願うこと。(2009.07)(と、前後のエントリ)
もう笑うしかない(主に失笑として)(2009.07)


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2009.08.10

杭を打ってみるのも、いいんじゃない?

ある程度までは賑わい(=量)が質に転化しますが、
程度を超えると量は混沌と低俗さに直結してしまいます。
その"ある程度"を維持できたためしがないのはネットの習いですから、
次々河岸をかえるのが「正しい振る舞い」ではあるかもしれませんが。


主導権は見る側に - タケルンバ卿日記

こういう呟く側の問題じゃないんよ。呟きを見る側の問題なのよ。(中略)すべてはそれを見たいと思うか。主導権は呟きを見る側にある。

「業務上ノ必要」や「自ラノ成長ニ資スル為」といった目的でもなければストレスになるようなイヤなものをわざわざ見る必要なんてあるわけがないですし、
上に書いたようにどのみち「心地よさ」が続くわけもないですし、
パソ通の時代とちがって他の「場」はやまほどあるのですから、
『イヤなら見なけりゃいい』のはそれはそれで正しいとは思いますが。


分かっていても『イヤな流れ』に杭を打ってみる、流れに抗って再考を促してみる、「場」のささやかな延命を願ってあえてそうしてみるのも全くの無意味ではないと思いますし──ただし、それが読まれれば、ですが──、そんなに悪し様に言われるような振る舞いだとも思わないのです。
ニュース記事の、あるいはブログエントリの2つや3つ撃ちこんだところであっという間に流れにのまれてしまうのでしょうが、少しは考え直してくれるひとが居るかもしれないですし。


『イヤな流れ』だと思ったら、黙って去るばかりではなく、たまには抗ってみてもいいかもしれません。
……もっとも、(ここ数ヶ月書いてきたように、)個人的には、言及先の言及先である『livedoor ニュース - 酒井法子さん騒動からtwitterを考える』が理想とするようなTwitterの使い方には全く同意しかねるのですが(笑)

まぁネットだし、こうしてブログでなんのかんのとやってみたって基本的に「しらないだれか」だし、言った/言われたところで他人も自分も簡単に変えられる/変わるはずもない、にしても、すこしはお互いに影響したりされたりがあってこその『コミュニケーション』じゃないの?とは言えるかもしれません。



ついでだし「再考を促す」系いくつか……

※オフについて:
オフは、慎重に。(2008.12)

※SBMについて:
なんでソーシャルブックマークの『コメント』ばかりいつも主議題になるんでしょうね?(2009.01)

※Twitterについて:
そういう使い方、大っぴらに言うたらアカン思うねん、やっぱり。(2009.06)
もう笑うしかない(主に失笑として)(2009.07)




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2009.08.03

迷う。どちらも難しいことだから。

いま考えていることだったり、
いまの状況の理解だったり、
これからのことだったり、
単純にネタだったり。

とにもかくにも、それらをとりあえず文字にして公開してみる。

賛意をもらえたらうれしいけど、
思ってもみなかった視点だったり、
そこから発展した考えだったり、
抜けや誤りのの指摘だったり、
そんなことを期待して。
あるいは、
せめて表示された数秒だけでも和んでもらえたりすればと。

それでなくても「読まれてナンボ」と思っているわたしですから、このエントリに向けてなにか書こうと思っていたのです:

ブックマークコメントに精神汚染されないための5つの心構え|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

……そう、賛意でも反論でもとにかく、「反応をくれるひと」の存在がないとはじまらない、
やはり自分のブログのいちばんの読者が自分であってはならないのですよね、だけどそこに至るのは(たいてい)ものすごく遠い道のりであって、というようなことを……。


と思いつつダラダラ過ごしていたらこちらのエントリも見つけまして:

継続の報酬 - タケルンバ卿日記

えー、いまのところ、わたしは原則読み返したりはしないひとなんですが(^^;、
……賛意でも反論でもとにかく、「反応をくれるひと」は未来の自分だった、というのもアリなのね...それまで消さずに続けていられるならば。

ただ……パソ通の終わりを知っているだけに、どうにも「未来」を信じられないわたしです。
自身の要因と外的要因とを問わず、いつまで消えずに残っているのか、いつまで続けていられるのか、ということを。


「いま」欲しくても叶わない。
「未来」があるかは分からない。
どっちも、難しい。

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