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2010.01.23

不思議不可思議:ああブログ

反証しまーす。

[を] 流行りものに対しては「これは失敗する」と言っておけば安全:

ほとんどの流行りものはすぐに廃れるので、予言はほぼ当たる。

「ブログなんてものがいつまで続くと思ってるんですか?」と冷笑し続けてはや6年
いまだ恥を晒し続けているTristarです、こんばんは。

4年半前……
「ブログサービスやめます」という事業者がそろそろ出てきてもいい頃(2005.07)

1年半前……
しかし、ブログって、終わりませんね。(2008.06)

……いや、ほんとに、ねぇ(苦笑)。

大手としては先駆者であったココログでさえ「まだ」6年ちょい、との見方もあるのでしょうが、「コンピュータとインターネット」の世界ではじゅうぶん長寿の部類ですよねぇ?


『(こんな世界になって、もう今更、)「書きたい」という欲求が潰えることはないと思うよ』
いやあのね、そういうユーザー側の話じゃなくてね。

事業者がこの「場所貸し業」を続けるうまみっていったいどれほどのものなのか、どうも不思議で。
そんなに「稼げる仕事」なんですかねぇ・・・
月額課金が○万人で、あとは無料ユーザーに表示させる広告収入で、といったところなんでしょうけれど。
いろんな意味で「力をつけた」のでしょう、ログインや閲覧が重くて、といったことも各社(ニュースになるほどの長期障害は)ほとんどなくなって、そういう点ではもう"ルーティンで回せる"業務になっているのかもしれませんが、それでもたとえばログは飽きることなく増え続けているわけで、相当のコストはかかり続けてるでしょうに。

海外事情はまったく無知ですが、やはり同じようにホスティングサービス林立状態なんでしょうか、ヤメる業者がバタバタ・・・という状態にはなっていないのでしょうか。


ホントは儲かる仕掛けになっているのか、
はたまたいわゆるレガシーコスト、ヤメると告知したときの反応が恐ろしすぎて潰せないのか(とくに日本の場合)。


いつまで続くんでしょうねぇ……この笑いと涙と炎上の飽くなきループが。


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2010.01.22

Twitterに勝手な期待をおっ被せる罪

(少なくとも)原初に企図したことは字面通り「つぶやく」こと(でのコミュニケーション)、であったはずじゃないの?
そこにあれやこれやと政治的経済的な期待を投げてよこす周囲のほうが、よほど罪深いんじゃないの?

Twitterを「つぶやき」と翻訳した罪:日経ビジネスオンライン:

私は、Twitterのコミュニケーションの価値は、その発言の内容がなにげない「つぶやき」であることよりも、「時間軸の共有」にある、と見ています。

たとえばそんな「底しれない可能性」を"勝手に"感じ取ったりして。


いまでは事業として腹をくくったのか単にニュースにならないだけかは存じませんが、少し前までは、たとえば政治的な運動に使われたりすることには運営としてむしろ困惑しているのではなかったかと記憶していますが。

いまでもヘルプにこうあるように:
Twitterヘルプ: 要はどんなツールなの?:

あなたの親友は「●●●の新しいアルバムを気に入った」というTwitterへのあなたの投稿に関心を持つに違いありません。お母さんは,「朝ごはんをカフェラテだけで済ませた」といったあなたのつぶやきを見逃さないでしょう。(中略)「いま」を知ることで,お互いにまるですぐ近くにいるかのように,つながり合えるのです。

こんな用途が(少なくとも)原初の企図であり、いまでも有効であるはずで、
こういう用途を"第一義"に使うことに対して見下すような物言い(Twitterを政治的経済的に利用してやろうという野望を持つひとたちに多いですよね)は、断じてあってはならないはずで。


何度も書きますけれども。
サーバに負荷をかけこそすれ直接にはTwitter Inc.の収益に1セントたりとも貢献するはずのない無料ユーザーの分際で、Twitterをおのれの経済的な、あるいは政治的な活動もしくは野望に利用しようとして、そういう用途に沿ったものであるべきだなどと勝手な期待を投げてよこすひとたちこそ、よほど罪深いのではないかと思うのですが。

そういうことがやりたければ自らのイニシアチブ(と、費用)によって好みの「場」を立ち上げるがよい、のであって。


ある意味いまさら手遅れなのかもしれませんが、日本に限らず世界的に、「Twitterにおのれの利益につながるような勝手な期待をおっ被せ、のみならずたわいない「つぶやき」であることを蔑むひとたち」は、自分たちのその性根をもう一度考え直すべきだと思います。


関連:
そういう使い方、大っぴらに言うたらアカン思うねん、やっぱり。(2009.06)
「うつつをぬかす」、それこそが正統。(2009.08)
失笑を通り越して、これはもはや恐怖。(2009.12)


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2010.01.20

24時間は不平等

ありがたい講話でも誌上インタビューなんかでも、えらそうなひとがよくおっしゃるのですが、「1日24時間は誰にも平等」って、"だから努力が足りない"というようなニュアンスで。

……まぁ、物理的には間違いではないのですが。

何度か書いているように「ほかならぬ自分がフォローした以上」Twitterのタイムラインは昨夜ログアウトしてから今夜ログインするまでも含めひととおり目を通しているわたしですが、
そんなタイムラインをながめていると、連日睡眠2~3時間で元気良く生きているひとたちが居ることに気づきます。
他方、最低7時間は寝ないととても体調が保てない、というひとも居るわけでして、

その24時間のうち「起きていられる時間」という時点でかなりの個人差ができている、つまりはけっして平等ではないことに気づかされます。


ということで、皆々様に置かれましては、「1日24時間は誰にも平等」なんぞ、空虚な精神論に過ぎないということを、今後ひとつご理解のほどお願い申し上げたいと思い至るに及んだのであります。



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2010.01.16

中の『人』

『画面の向こうに人がいる』

それは忘れていないつもりなのですが……

『人』であって、それ以上ではない、と申しましょうか……。

twitterで知り合った人と付き合う事になりました。経過と所感など。(はてな匿名ダイアリー)

まぁその、これもよくある話ではございまして、もちろんケチつけるとか、そんな気は毛頭ございませんが。


『networkの匿"顔"性』
『(リアルの)属性のしがらみからの自由』
それを標榜しつづけてはや13年。

「画面を通したおつきあい」に、性別を、それに限らずさまざまな"属性"といったものを、できれば意識したくもされたくもないなぁ、と思い続けてきたわたしには、やはり"わからない"部分があるのです。


その……やっぱりみなさん、♂♀くっつきあってどーのこーの、を狙われるわけですか?(^^;


わたしよりももっと古参の方々であればコミュニティができればオフはつきもの、というような"文化"もあったように思いますが、
そんな牧歌的な時代はとうに過ぎ去り、これだけ危ない危ないといわれる21世紀に、どうして会えますかねぇ・・・(^^;;;というのと、

長々ブログしていれば、ましてやTwitterなど、どうしても「生活」がにじみ出てしまうもので、丹念に読まれればそりゃ"プロファイリング"は簡単で、そういう意味ではわたしとてバレバレではあるのですが、それでもなお「建前としてでも」性別不詳でありたいなと、これでも気を使っていたりするわたしです。


関連:
オフは、慎重に。(2008.12)
白紙のプロフィール-唯一、読み手に強制できること(2006.01)
ただ、画面に映る文字のみで(2004.04)



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2010.01.09

まずは「活字中毒」の気があること。それが、ブログやらTwitterやらを楽しめる条件。

……かもしれないな、と、ふと。
パソ通から数えると十数年もやっていていまさらなんですが。

だって、周りにも居るでしょ?
「本を読もうとすると眠気が襲ってきて読めないもん」ってひとたち。

そして、自分はどうだった?
ネット以前から「読むこと」は"好きなこと"じゃなかった?
すくなくとも苦痛ではなかったのでは?


そんなことを考えるとね。
こんな時代だから「情報収集には」得手不得手なんて問答不要にネットを使うことは求められるだろうけれど、それ以上、必要以上の時間を"ネットで過ごす"とするなら。
多少なりとも「活字中毒」の気があるから(できること)、かもしれないね、なんて。

携帯メインだとまたちょっと違うかもしれないけれども、
少なくともパソコンで見る層は。

だって、モニタいっぱいに写る活字(じゃないけど、規格化された文字列)をですよ、
来る日も来る日も来る日も来る日も飽きることなく眺め続けられるなんて、よほどの変態……もとい、才能でもないとできることじゃありませんぜ旦那(笑)。

いくらマルチメディア(死語(笑))だと言っても、あくまで文章メインだし、それこそTwitterなんかだと文字しかないし、そういう類のを好きこのんで読み続けられるというのは、ね。


だから、
(ブログやらそういうのを指して)「ネットつまんない」「なじめない」なんていうひとたちの何割かは、(読んだ内容以前に)そういう"適性"に問題があったのかもしれないね、ということを思ったのでした。


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2010.01.07

Twitterを解説するのに「ゆるい」という冠をつけてはマズいのではないかと思った件。

みなさん、よくそうおっしゃいますけれど……というか、わたしも前稿でおもいっきり強調表示までしておいてアレなんですけれども。

イヤならリムーブすればいいぢゃないなう - カナかな団首領の自転車置き場:

スイーツ的には、Twitter という居酒屋で、(中略)一人でべらべら喋り続けて、他の友達の話が聞こえなくなっちゃった、(中略)「ちょっと、少しは静かにしててよ。皆、しらけちゃうじゃない」という忠告を、思い切ってリプライするわけ。
そしたら、「イヤならリムーブすればいいぢゃないなう」とか言われるわけ。
挙げ句の果てには、RT されて、はてブされて、言われ放題。
いえいえ、リムーブするなんて出来ません。だって、リムーブされたらイヤだから。自分がされてイヤなことを、他人にしてはイケナイんですよ、がスイーツの鉄則。無断リンク禁止と同じなのね。

うん、分からなくはない。

ということで思ったこと。

Twitterというのは「ゆるいコミュニケーション」なのよ、という表現を読めば、それこそ"スイーツ"的には、
個々のつぶやきの内容も、みんなのやりとりも、流速も、なにもかもが『ほのぼのと、そしてゆったりしている』というニュアンスに受け取るのではないか、と。
だからドバっと来ると「なによ!」ということになるし、
引用先には「もっともっとフォローして流速増やせば薄まるよ」なんて反応があったけどそれはまるで逆方向なのね。
「ほかならぬ自分がフォローした」以上、相手のつぶやきは「ちゃんと読みたい(し、読まれたい)」んだから。


ただ、
ベテランの言う「ゆるい」というのは実はそういう意味ではなくて。

「絆」は「きずな」と読むが「ほだし」とも読み、後者の場合"関係性のしがらみ""束縛するもの"というニュアンスになる、とは
大平 健『やさしさの精神病理』(岩波新書:1995年)
に書いてあったことの受け売りですが、

ベテランがTwitterに「ゆるい」という冠をつけて解説するときにはまさにそういう意味の「ゆるさ」なんでしょうね。束縛の緩さ──それは裏返せば『「きずな」の緩さ』でもある、という。

だから。
ある意味ではいちばん「荒涼とした場所」でもあるんですよね。
何百フォローされていたって、あなたの発したつぶやきは、たとえばブログのエントリなんかよりも、もっともっと「見られもしていない」。
かといってやまほどリプライが来ても困るわけですが(笑)、しかし「反応を期待して」投稿しているのだとすれば、却ってブログよりも"虚空に放つ"感が強くなることはあると思うので。


「場」である以上は「Twitter婚」だって現実に存在するとはいえ、"ゆるい"というよりは"人間関係的にはドライさが推奨される"みたいな冠をつけたほうが『ベテランの説く暗黙の了解』としては正確に伝わるんじゃないかと思った次第。




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