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2010.02.07

いま、もう一度、『畏れよ、未来を』。

……といいつつ13年の長きにわたりナニゴトカを書き続けているわたしです、少々説得力に欠けるかもしれませんが(苦笑)。

かつてこう書きました:
畏れよ、未来を(2006.03)

「ダダ漏れ」が一部方面で流行(語)化しつつあるといういま、もう一度、この言葉を伝えたいと思いました。


H-Yamaguchi.net: 皆さん「ダダ漏れ」についてちょっと思い違いをしてはいないか?:

誰もが動画で情報発信できる時代とは、誰もが動画に映り込む可能性をある程度は認識しておかなければならない時代だ。もちろん何をしてもいいという話にはならないが、今のようにほんのちょっとでもだめという考え方は現実的とはいえない。
つまり、ある程度は権利侵害をお互いに許容しようというわけで、これはけっこう「過激」な話だと自覚はしている。(中略)しばらくはあれこれ議論が続いたり、トラブルが起きたりしていくことになるんだろう。むしろ安易に結論を出さないほうがいいと思う。

"安易に結論を出さないほうが"といいつつ、「容認」、さらには「推奨」のニュアンスに読めて、すこし怖いものを感じましたもので。


他人の未来に地雷を埋める権利が誰にあるというのです?
関連→他人と自分の未来に地雷を投げないこと(2009.01)

ブログやらTwitterやらがこの先20年も30年も(いまのような形で)続いているとは到底思えませんが、どこかのハードディスク(とは限らんが記憶媒体:以下同)にはアーカイブされて、ある「人」についての過去がクリック一発で"発掘"され得る可能性は、この先大きくなるばかりでしょう。
同様に、ある「人」のいまの姿をキーにすれば、LANケーブルにつながった世界中のハードディスクからものの数秒で「その人が映っている映像」が整理されて提示される可能性、も、十年単位の未来を考えれば荒唐無稽な妄想とばかりはいえないでしょう。

ネット中継中に自分の姿がダダ漏れされる覚悟のない者が、ブームに乗ってダダ漏れなどやろうとは考えてくれるな、と。
そういう問題ではないんだと思うんですよ。

数年前に偶然撮られたあなたの姿──それは隠しておきたかったもの──によって、あなたの未来が閉ざされ...はしなくても、可能性が狭められるかもしれない。
そんな理不尽なこと、ありますか?
今後、「誰かを撮って公開する」イコール「他人の未来に地雷を埋める」という話に、どんどん近づいてゆくのではないでしょうか?
そんな権利が誰にあるというのです?という話として考えるべきことではないのですか。

極端なことをいえば、TVで「花見で騒ぐヨッパライ」や「アルプススタンドの風景」を映すことさえ、"牧歌的な時代のこと"として過去に追いやる必要があるのではないかとさえ思うのですが。


畏れよ、未来を
自分自身の(私生活)ダダ漏れ、について。
まぁ"名前を売る"ためにはある程度の露出は必要なことではあるのでしょうが、それとて"想定外の未来"においての地雷になりかねないことには変わりはないでしょう。

なにかで読んだだけのコトですが、五感に感じられないものごと および/または まだ見ぬ未来について畏れを感じるのはヒトだけに備わった能力である、そうです。

だとすれば、やや挑発的にいえば、目先の英雄or女神気分(と、もしかしたらちょっとした小遣い)を得るための行動が未来の地雷になりかねないことを考えもしないなど(人間以前に)ヒトとしてどうなんですか、といえるかもしれません。

もっとも、『「来週の検診のために今週の節制」はできても「30年後の肺がんリスクをわかっていても目先のタバコはやめられない」』のもまた人間ですし、
そもそもこんな時代に未来があるかどうかさえ怪しい、としても、

すべてがアーカイブされクリック一発で発掘され得る世界に生きている、という"恐怖"を、
いま、もう一度、そしてもう少し真剣に考え直すべきなのではないかなという気がいたしました。


あ、「なぜメリットに目を向けないのか?」という問いは却下。
関連→「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。(2009.02)

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