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2010.02.27

楽しい時間は引き抜けない

「○○知ってる?楽しいよ!」
ある"場"を楽しんでいるひとが、そこにもっと人を呼び寄せたい、と思うときの言葉ですが。

「『どっぷり浸かっていて楽しんでいるほかの場』がすでにあるひと」には効果のない言葉かもしれません。
もういまさら"空白の時間"なんて誰にも余っていなくて。
時間の奪い合いになるから。
すでに楽しんでいる場をもっているひとを引っこ抜くのはものすごい労力が要るのだと思います。

あたらしく人を呼び寄せたい、と思うなら、ほかのいろんなことに欲求不満を感じていて、居場所のなさを感じているひとに向けて「そんなあなたにSecond Life(あ、言っちゃった)」と宣伝するほうが成功率は高くなるのではないかなと。
あるいは、「何万人がそれぞれ何時間も費やして楽しんでいた何か」が衰退を迎える時を狙う(^^;とか。

……ということを、
Togetter(トゥギャッター) - まとめ「SecondLifeを日本で復興するには」
のタイムラインを眺めながら考えてみたのでした。


関連→「ネットする」時間には限りがあって。(2007.12)

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2010.02.22

いよいよ、終わりの始まりなのか。

決して広いとはいえないわたしのウォッチ範囲の話ではありますが、
いつものように見て回る界隈からは、いつのまにやら、
『ブログ論』
『ネットコミュニケーション論』
と呼べるようなたぐいの話が"絶滅"といってもいいくらいに少なくなったような気がいたします。
#ここ数カ月の更新意欲の減退も"読んでいて引っかかる"そういうたぐいの(誰かの)エントリが減ったから、かも……

まだTwitter論であればよく見かけますが、しかし残念なことにビジネス用途でどう稼ぎに活かすか、というお話ばかりのように見受けられます。

……それって。
ブログブームの終わりとか終わったとか言われつづけて幾星霜、今度こそ本当に「いまから始める人」が居なくなりつつあることを示している、のかもしれませんね。


とくにトラブル方面において「過去から学ぶ」ということからはかなり遠いところにあるこの世界(苦笑)のことです、
あたらしい人の流入が続いていれば、過去何度もあったトラブルもまた繰り返され続けるはずで、
それをもとにした考察エントリもまた一定の量は出てこなければおかしいはずで、事実今まではそうだったはずで。

そのサイクルが途絶えはじめた(ように感じる)ということは、いよいよ終わりの始まりなのかな、と思ったのです。



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2010.02.13

読まれたくて、見られなくて、それでもメゲない、変わり者。

……そうでしょう?
『普通』じゃないですよ、わたしたちは(笑)。

普通の人のブログが面白い。 - かみんぐあうとっ:

むしろ、普通の一般人のブログが面白いと思います。

普通の人が書くからこそ面白いと思うのです。

そう、俗に言う"一般ピープル"という意味では普通だとしてもね。

身内向けではない、"しらないだれか"に読まれることが前提で、だれかに読まれたくて「ブログする」なんて。
急激に変わりつつあるとはいっても、やはり、そんなわたしたちは、「ちょっと変わったニホンジン」ですよ。

関連→千年前から規格外(2008.10)


さて……
やさしい文体でさらりと(わたしにとって)残酷なことをおっしゃいます。

普通の人の声もちゃんと聞いている人は聞いていて、見ている人は見ています。

ブログでもTwitterでも続けていけばいくほど、自分という存在が少しずつ知られていくというのはあります。

続ければ続けるほど、見られるようになる。見てくれる人は見てくれる。そう思います。
半分はそう思うけれども、半分は「そんなことはない!」と思うのです。

アクセス解析は毎日──いや、日に5回は見ているわたしですが。
更新すれば確かにlivedoor reader/google readerと思しきリンク元が現れますから、「見てくれる人は見てくれる」というのはそう思いますしありがたいことではあるのです。
でもね。
「続ければ続けるほど、見られるようになる」というのは、それは、あんまりにも希望的観測に過ぎますよ!・・・と言いたいです。

週間・月間でみたアクセスが増え続けるとか、Twitterでいえばフォローが増え続けるとか、そんなことは、ないですよ。
アクセス解析をつけた6年前を思い出せば、そりゃー増えてはいます。でも、ここ3年くらいでいえばむしろ長期低落傾向なのは、一体どう説明するのでしょう?

関連→「実力が継続を作る」のかも。(2009.10)


Twitterで更新したのをつぶやくというのも有りだと思います。「へぇ、フォローしたこの人はブログ書いてたのか、」と。

ええ、更新後にだいたいtweetしてますが、リンク元に"twitter.com"関連がゼロなことも多々ありますが、なにか?
数日後にだれかにtweetされたらしくてリンク元に現れることならありますが。



読まれたくて、でも現実には見られもしなくて。
個性の実力、ただそれだけが冷厳につきつけられる、そんな世界なんだと思っています。

反応がなくてもそれはそれで仕方ない。めげちゃダメだ、めげちゃ。次また書こう。次またがんばろうと。
それでもメゲずに──というかあきらめきれずに(笑)──、次を信じて。
またやっぱり見られもしなくて、それでも、まだ、まだ、……

あほやなぁ、って思うでしょ?

やはり、変わり者(笑)。『普通』じゃないですよ。



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2010.02.07

いま、もう一度、『畏れよ、未来を』。

……といいつつ13年の長きにわたりナニゴトカを書き続けているわたしです、少々説得力に欠けるかもしれませんが(苦笑)。

かつてこう書きました:
畏れよ、未来を(2006.03)

「ダダ漏れ」が一部方面で流行(語)化しつつあるといういま、もう一度、この言葉を伝えたいと思いました。


H-Yamaguchi.net: 皆さん「ダダ漏れ」についてちょっと思い違いをしてはいないか?:

誰もが動画で情報発信できる時代とは、誰もが動画に映り込む可能性をある程度は認識しておかなければならない時代だ。もちろん何をしてもいいという話にはならないが、今のようにほんのちょっとでもだめという考え方は現実的とはいえない。
つまり、ある程度は権利侵害をお互いに許容しようというわけで、これはけっこう「過激」な話だと自覚はしている。(中略)しばらくはあれこれ議論が続いたり、トラブルが起きたりしていくことになるんだろう。むしろ安易に結論を出さないほうがいいと思う。

"安易に結論を出さないほうが"といいつつ、「容認」、さらには「推奨」のニュアンスに読めて、すこし怖いものを感じましたもので。


他人の未来に地雷を埋める権利が誰にあるというのです?
関連→他人と自分の未来に地雷を投げないこと(2009.01)

ブログやらTwitterやらがこの先20年も30年も(いまのような形で)続いているとは到底思えませんが、どこかのハードディスク(とは限らんが記憶媒体:以下同)にはアーカイブされて、ある「人」についての過去がクリック一発で"発掘"され得る可能性は、この先大きくなるばかりでしょう。
同様に、ある「人」のいまの姿をキーにすれば、LANケーブルにつながった世界中のハードディスクからものの数秒で「その人が映っている映像」が整理されて提示される可能性、も、十年単位の未来を考えれば荒唐無稽な妄想とばかりはいえないでしょう。

ネット中継中に自分の姿がダダ漏れされる覚悟のない者が、ブームに乗ってダダ漏れなどやろうとは考えてくれるな、と。
そういう問題ではないんだと思うんですよ。

数年前に偶然撮られたあなたの姿──それは隠しておきたかったもの──によって、あなたの未来が閉ざされ...はしなくても、可能性が狭められるかもしれない。
そんな理不尽なこと、ありますか?
今後、「誰かを撮って公開する」イコール「他人の未来に地雷を埋める」という話に、どんどん近づいてゆくのではないでしょうか?
そんな権利が誰にあるというのです?という話として考えるべきことではないのですか。

極端なことをいえば、TVで「花見で騒ぐヨッパライ」や「アルプススタンドの風景」を映すことさえ、"牧歌的な時代のこと"として過去に追いやる必要があるのではないかとさえ思うのですが。


畏れよ、未来を
自分自身の(私生活)ダダ漏れ、について。
まぁ"名前を売る"ためにはある程度の露出は必要なことではあるのでしょうが、それとて"想定外の未来"においての地雷になりかねないことには変わりはないでしょう。

なにかで読んだだけのコトですが、五感に感じられないものごと および/または まだ見ぬ未来について畏れを感じるのはヒトだけに備わった能力である、そうです。

だとすれば、やや挑発的にいえば、目先の英雄or女神気分(と、もしかしたらちょっとした小遣い)を得るための行動が未来の地雷になりかねないことを考えもしないなど(人間以前に)ヒトとしてどうなんですか、といえるかもしれません。

もっとも、『「来週の検診のために今週の節制」はできても「30年後の肺がんリスクをわかっていても目先のタバコはやめられない」』のもまた人間ですし、
そもそもこんな時代に未来があるかどうかさえ怪しい、としても、

すべてがアーカイブされクリック一発で発掘され得る世界に生きている、という"恐怖"を、
いま、もう一度、そしてもう少し真剣に考え直すべきなのではないかなという気がいたしました。


あ、「なぜメリットに目を向けないのか?」という問いは却下。
関連→「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。(2009.02)

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