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2010.04.25

140の幻(Twitterと過ごした2年)

数日前にわたしがTwitterを始めて2周年を迎えまして、昨年同様に雑感を書こうと準備だけしてボツにしたものの別ネタで思い浮かんだのでやはり書いておこうかなと。

ちなみに昨年の→フォローしたのは、他でもない「自分」でしょ?(Twitterで過ごした1年)(2009.04)

あれから1年。
この1年は、ビジネスに政治に使おうという欲の皮がつっぱった人々が目立ったように思います。

ビジネス利用についてはTwitter Inc.自身が歓迎しているようにも見受けられるので言っちゃいけないかなと思って一旦ボツにしたのですが、
(企業)組織であれ個人であれ、
無料サービスの無料アカウントを使っていながら、オノレの稼ぎやそのための情報/人脈漁りにシャカリキになるとは、厚顔・強欲にも程があろう!
とは思っています。

あースッキリした(笑)。
(今後はあまり言わないでおきます、はい。)


さて(こっちが本題)、
以下はあくまで『日本語(でツイートする)ユーザー』に限ったおはなし。

Twitterを紹介する時にはほとんどに「140字(以内)の~」と枕詞がつきますし、(むしろTwitterの外で)「140字制限の苦しさ」みたいなことを書いておられるひとはいますけれども、

ほんとうに「140字制限」ということを意識しているユーザーって、どれくらい居るんだろうね?と。

日本(の教育)で育っていれば、たとえば「140字以内」と書かれていたら、どうにか膨らませてでも最低100字には届いていないと内容以前に0点つけられる、という"暗黙の下限"を各種試験を通じて叩き込まれているはすでして(笑)、ほんとうに意識していれば140制限ぎりぎりのツイートがもうすこし多く見られてもおかしくはないはず、なんですけど……

誰かがデータとっているのかもしれないですけれども、日本語ツイートの文字数の中央値とか最頻値とってみたら、おそらく「100」にも大きく届かない数字が出てくるのではないかと思うんです。

だとすれば140なんてリミットは実質「はるか遠くのもの」であって、"どうでもいい"数字。

そうかと思えば逆に、連投することで数百~千文字クラスの論考をあげるひとも少なくはないわけで、これもまた1ツイートの制限字数なんて別にどうということはない話(のはず)で。

ということでほんとうに「140字以内」ということが何かの『枷』になっているひとなんて、実はほとんど居ないんじゃないかという気がするので、
あんまり「140字(以内)の~」という枕詞で特徴を強調するのはどうなんだろうね?と、
そんなことを考えたのでした。

繰り返しますがあくまで『日本語ツイート』に限った話ですけれども。
……もしかしたら中国語あたりでも同じことが言えるのかも(表意文字だし)。



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2010.04.18

万人が『娯楽』と認める、その日まで。

その日まで、どうしても真顔で使いたいひと、あるいは扇動に使いたいひとたちとの不毛なこぜりあいが続くのでしょう。
リアルに深刻な影響が出るまえに、どうか皆が、無制限なネットコミュニケーションは『あくまで娯楽の場』である、という共通認識を持たれますよう、切に願います。

デマとツイッター(はてな匿名ダイアリー):

ちょっと見つけてびっくりしたとか(結果として)間違いだったけどそう思ったとかいうことを書いて、それが勝手に広まっていって、よくよく調べてみたらそれは違っていましたみたいなことに対していちいちそんなに目くじら立てなくてもいいのになーとは思う。(中略)
この話をどこかで聞いて、ふと思い出したりなんかして、何かしら思うところがあってpostして、これを聞いて同様にRTしただけで叩かれるなんてどんなディストピアだよtwitter。
ま、デマが広まるのはいけないことだとは思うしリテラシーが大事なのはわかるけれども、もう少し余裕を持ちましょうよ。

「余裕を持」てるのは、それを読んだ皆が皆例外なく──アカウント取らずに眺めているだけのひとも含めて例外なく──俗にいう"ネタ"だと認識できているときだけですよ。

「Twitter」が「2ちゃんねる」よりも嘘に弱い3つの理由 巨大パニックは必ず起こる(はてな匿名ダイアリー):

そして、ここまで拡大していくと間違いなく、なにかしらのパニックが起こりやすい状態になった
この前のジャニーズや、政治的なものが可愛く思えるような全国規模のやつが起こるんじゃないかと思ってる

デマRTの広がりは(まとめで)見ましたが、もうすこし普及すれば、いつまでも「RTしただけで溜飲を下げる」ひとたちで構成されるわけはないのです、あれだけの伝播力のもと、信じたひとたちがリアルに深刻な影響を引き起こす危険はすぐそこに迫っているのですよ。
このままだと俗にいう"工作員"の思う壺、きっとニヤニヤしながら事の次第を注視していますよ。


政治活動でも、災害関連でも、救援要請(人探しとか)でもなんでも、
そういった『真顔案件』は、無制限なコミュニケーションの場に流したとたん、虚実入り乱れてぐちゃぐちゃにされ、終いには大喜利のネタとして消費されるだけであって、ほとんど当初の目的を達成しないばかりかさらに悪い方向に転がす、というのは今まででさんざん学んだことでしょう、違いますか?

「Americaでは……」と残念がるひとはたまに見ますが、あなたがただって本心では日本──正確には日本語文化圏──の"進み切ってしまった現実"を十分理解しているでしょう?

関連→『生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。』(2009.06)


無制限なネットコミュニケーションを、
『真顔案件』には使わない、リアルに波及しない、させない。
この三原則を、皆が皆例外なく──ただ眺めているだけのひとも含めて例外なく──弁えるようにならないと、
これだけの乗せられやすさと伝播力をもつ場は、いずれ(とくに政治経済方面の)何かを扇りたいひとたちによって、いいように操られることになるでしょう。

Twitterが意外にあっさり消滅したとしても、似たような、たぶんもっと伝播力の強いなにかがすぐに生まれるでしょう。
そして伝播のはやさはともかく、ブログでも同じことですが。
場の入り口に『ストップ!真顔案件』の看板を立てておかないといけないかもしれません。

……ともかく、いまも続々沸き続ける『「政治活動に使おう」だの「世界を変えよう」だのという勘違いなひとたち』には、一刻も早く考え直していただかなくてはなりません。

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2010.04.11

少なくともブログやTwitterにおいては「コミュニケーションが第一義」であってほしい、かな。

むしろ「コミュニケーションができる」という以上の実利を求めるな、とあれほど……

ウェブがコミュニケーションツールであるとの誤解がtwitterによって加速する - novtan別館:

ウェブにおけるコミュニケーションツールの側面と言うのは言ってみれば副作用みたいなもので、Publicなスペースに対して容易にPublishできるということ利用方法の一種に過ぎませんね。

そうですか?
組織や、個人でも業務としてのPublishであるならそうかもしれませんけど、
わたし(たち)のように「個人が個人の立場で」発信するというときには、ウェブ利用以前──パソ通の昔──からコミュニケーションが前提であったはずなので、"副作用"という表現はちょっと、ね。

つながり感がそれなりに強調されているけどそれは、有名人と直接やり取りできる、みたいなメリットばかり。
そうなんですか?……まぁ、こうやって「しらないだれか」にTB撃ち込めるひとがどれだけ居るのか、と思えば、確かにそう宣伝するしかないかもしれませんねぇ(^^;;;。

とはいえ、たとえばブログであれば、(今は(後述のこともあってか)あまり見ませんけれど)「コメントもトラックバックも閉じておいて何がブログか!」という批判は結構あったはずで。
更新してもしなくても、主にあだると誘導系の迷惑コメント/トラバにまみれてしまって実質的に機能を喪いかけているとはいえ、「何かしらの反応があって、そこからまたやりとりがある」というのが"ブログする"ことの前提であったはずだし、その根っ子は失いたくないのです・・・個人としてではなく、"文化"として。

ましてやTwitterなんてものは「他愛もないつぶやきを共有する(ことで、つながる)」ために生まれたものでしょう?……まぁ近頃はその基本を忘れてリアル実利を追いかける方面ばかり喧伝されてウンザリしているのは再々書いてきた通りですが。

要するにですね、そういう場においては「コミュニケーションが第一義」ではないのですか?今までも、今も、これからも。
決して誤解や副作用なんかじゃなくて。


『ネットワークコミュニケーション』と『HTML で書かれたものが HTTP でやりとりされる WWW というもの』とは、どちらがどちらを包含するものではない、という意味では確かにリンク先の言うことは間違いではないのでしょうけれど、
個人が個人の立場でネット(のオープンな場)になにごとかを発信する(したい)というときの現時点でのもっとも代表的なツールとして、ブログ、あるいはTwitterを使うにあたっては、このエントリのPermarinkが示すように「レスが来てナンボ」、すなわち双方向のコミュニケーションが前提であってほしいな、と思います。

実際にはうまくいかないし、だからあまり期待しすぎてもいけないけどね。

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2010.04.05

ブログやTwitterを「選挙運動」に使うことには、明確に反対します。

いまのところ日経だけしか報道していないようですが。
「ネット選挙運動」解禁へ :日本経済新聞

繰り返し繰り返し書いてきましたが(末尾リンクとそこからのリンク参照)、
選挙運動に使うべきではないと考えます。
深く深く憂慮します。
強く強く考え直していただきたく思います。


こんな、ブログやTwitterという、『瞬時の盛り上がりが命』であるようなところに投げていい事柄ではないはずです。

いいことを言っても、大量のログにあっという間に押し流されて忘れ去られるのです。
それと同時に、ちょっとした失言はいとも簡単に袋叩きの材料にされるのです。

刹那の評価で切り刻まれて捨てられることを望むのでしょうか?

なかには緊急性の高い事柄もあるでしょう。
しかし基本的には、行政や司法に比べてみれば、立法というのは「長期の視野で」「冷静に」考えるべきはずのものではないのでしょうか。
ましてや日々の活動ではない、選挙運動、つまり、公約に対してどうのこうのと話をするのであれば尚更のことでしょう。
そのような「シリアスな話を」「じっくりと行う」ようには設計されていません。


以前にも書いたことの繰り返しですが、
字義通りの「情報源拡大」として、
従前の選挙公報や(左記訂正:選挙公報は完成から投票日までの間各都道府県選管のサイト(総選挙の場合)に掲示され、閲覧可能です)政見放送の延長線上のものを、いつでも閲覧・視聴できるように、
ということであればすぐにでも取りかかればいい(ただしセキュリティには最大限の配慮をした上で)、と思いますが。


ネットコミュニケーションにどれほど高尚な幻想を抱いておられるのか分かりませんが、
強く強く強く、考え直していただきたいと思います。



関連:
失笑を通り越して、これはもはや恐怖。(2009.12)
Twitterに勝手な期待をおっ被せる罪(2010.01)
続・Twitterに勝手な期待をおっ被せる罪(2010.03)



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2010.04.01

【速報】次世代のHTML50/CSS30ではイギリス英語が使用可能に

【2100年4月1日】情報筋によると、宇宙インターネット評議会(http://c!c.org)は1日、次世代のマークアップ言語である HTML50 および その表示を指示する仕様である CSS30 において、20世紀からの懸案であった、 colourcentre といった「イギリス英語」を使用可能にすることを決定した模様。遅くとも1年後の2101年4月1日以降に一般公開されるウェブブラウザはこの勧告に沿ったものであることが求められる、との声明を発表する予定であるという。


……というのはもちろん今年初参戦!のエイプリルフールネタでございますが、しかし。


前々から思っていて何度か書いてきたのですが、
例:HTMLの小ネタ(2004.01)
ほんと、これ、イギリス英語圏のひと、ストレスためてないのでしょうか、ねぇ...???

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