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2010.06.29

虎は死して皮を留め、夢は死して大喜利を残す。

#「大喜利」って変換してくれないんですね、IME2007。

繰り返されるのは、
1.それだけの数の「夢見て夢破れた」死屍累々が連なっているから
または、
2.過去へのノスタルジー

だという気がいたします。

Togetter - まとめ「なぜツイッターでは繰り返し「ツイッターは議論に向かない」と執拗に主張されるのか問題」

私たちは、普段の生活の中で、「議論」なんてものは めったに・たまにしか していません。なので、もしも_仮_に_、そのような特殊な活動が、特定の ITサービス(たとえばツイッター)の上で「やりにくい」というような事情が あったとしても、特に困ることはなさそうに思われます。

まぁ、困りはしない。かもしれない。

だけど、ネットコミュニケーションだからこそ『議論』ができることを夢見て、そして夢破れたひとがそれだけの数居る(そして、いまも続々斃れ続けている)、ということではないのでしょうか。
ネットだからできる、つまり、リアルとネットとは別物だという考えであったのだとするならば、何も不思議なことは無かろうと思いますが。


他方、確かに昔は議論が成り立った(こともあった)のです。パソ通の昔には
それ以上に「論理を尽くした罵倒合戦」のほうが多かったでしょうけど……(^^;;;

時代が変わり、ネットは進歩しました。
「だからこそ成り立たなくなったもの」へのノスタルジーというのも、またあると思います。


実のある──マジメな──議論ができないことを残念がっても、
過ぎし日々を懐かしんでも、

時は戻りませんし、
進歩の方向は一定ですから。

関連→『生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。』(2009.06)


世界にフルオープン!な場で、"真顔ですべき議論"が成り立つことなど、もう無いんだ、と思っておいた方がいいかもしれません。

そういう意味では、これ以上「夢見て夢破れ斃れる」不幸を再生産しないために、むしろ執拗に「真顔案件に使おうなどと夢見るな!」とアピールし続けるべきなのかもしれません──"先達の務め"として。


Twitterでいえば。
まとめサイト『さまざまなめりっと』に、日々の「ふぁぼったーデイリーランキング」というのがありますが、毎日毎日"うまいこと言った"ランキング、になっているのがよくわかると思います。大喜利。

ああいう状態である限りTwitterは「大丈夫」であって、もし真顔案件がたびたび出てきたとすれば、それはTwitterがネットサービスとして"終わった"(力を失った)とき、なんだろうと思っています。

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2010.06.10

おもろうてやがて哀しき…

─ネットかな
─ブログかな
─ついったー
─SNS、でもいいけど、みくしかな
─SBM、でもいいけど、はてブかな

……汎用性が高すぎて困る><

って、ネット関連に限る必要はどこにもないのですが(笑)


※面白うて、ではないことに注意!・・・ニヤリとしたあなたは関西人。

関連→おもろうてやがて哀しきネットの縁(2006.08)



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2010.06.05

話を上げた、その先に。

求めるものは人それぞれ、といえば終わっちゃいますし、主題として言いたいことは一致している(はず)なので前稿の繰り返しぽくなってしまいますが。

ekken-Re:書くのと結果を確かめるのは、セットだからなぁ。:

"共感をもって読まれてナンボ"という感覚は持ち合わせていませんでした。
自分の書いたものに対して共感の意思表示があるのはもちろん嬉しいのだけど、私としては「共感の確認」は決して主目的にはなっていないのです。どちらかというと自分が気付かなかった視点による異論が読めることのほうが面白いし、同じテーマで続きや別の話を書くことのモチベーションになったりします。

そうなんですか……?
わたしも「それは違うのでは」と書いてみたり、あえて裏側からの視点で書いてみたり、することは多々あるので後半部分はよく分かるのですが……
それにしても、話を続けたその先で、当事者だけでなく周囲含めて、共感というか、こちらに(比較的)理があると思ってもらいたい、と、わたしはそういう気持ちでいますけれども。


……と、わたし自身の気持ちもですけれど、おおもとの言及先であるところの『不快な思いをしない為の「アクセス解析見ない」はホントにオススメ』と同じく"一般論として"、

不快な、あるいは野次・茶々入れの言及やリンクやコメントが!と怒るからには、
書いて上げたその反応に、救いや解決や、せめて癒しを求めていたんでしょうね、

という推測を問いかけてみたのが意図でございまして。


相違点はここまででして、お互いの主題(だと思った)、

読む人を限定しない公開では、反対意見や不快感の持ち主が出てくるのは当然のことだし、(中略)読み手に異論を出すことを禁じることはできません

ということでは一致しているので。

そこでわたしはもう一歩踏み込んで、
(シリアスな)話を上げたその先に、救いや解決を求めてるなら、世界にフルオープン!な場に書いたら絶対あかん、そういう意味で
『ストップ!!真顔案件』と言い続けているんですけどね。

たたかう気が、その覚悟があるならいいんですよ、
「悪いのは奴らだ」、こちらがゲーテッド・コミュニティに退くなんて正義に反する、そういう考え方は当然あるでしょうから。
ただ、その悪意とたたかうことで確実に疲弊はするし、その分それぞれの"本論"の解決は遅れるし、そこから遠ざかってゆきますよ、
それはやっぱり不幸なことじゃないの?と。

あまりにもブログの、あるいはTwitterなんかの存在感が大きくなりすぎて、なにかを書くときの選択肢が狭まりつつあるような気もしますけれども、
なんでもかんでも世界にフルオープン!な場がふさわしいですか、そんなわけないでしょう、ちょっと考え直したらどないですか、と、そういうことを言いたいわけです──繰り返しますが、話を上げたその先に、救いや解決を求めるなら、ですが──。


シリアスな話でも、いわゆる居酒屋談義というか床屋政談というかそういうノリで、話を上げたその先でやいのやいのと沸いてくれたらそれで目的成就、というのなら、それはブログでやればいい、むしろそれこそが無制限にオープンな場でするにふさわしい、そう思いますけれども。


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